かぶ

真実の目覚める時 - 66

 感情を伝える事に少しずつ慣れてきた彼女の言葉はどこまでもストレートで、ランドルフの心に深い感動をもたらした。
「君は本当に――いや、きっと無意識なんだろうな、だが……どうしてこうも俺の心を奪い続けるんだろうね? いつだって限界だと思う程、これ以上はないと思える程心を捧げているというのに、君はいとも容易く更に先があるのだと、もっと深く強い感情が俺の中には眠っているのだと知らしめる。おかげで俺は、君なしでは生きるどころか呼吸すらできそうにないほど君に溺れてしまってる――!」
 いっそ口惜しげにすら聞こえる口調で告げ、唐突にマデリーンをベッドへと押し倒す。予想だにしない夫の行動に彼女が驚きの声を上げるより先に、彼は自身の言葉が真実なのだとその身体でもって証明しはじめた。
 ランドルフの情熱が巻き起こした嵐は、官能という名の海にマデリーンを引きずり込み、なすすべもなく溺れさせてしまう。元より水面に張った薄氷の上で息を潜めるようにして鋭敏になっていた感覚を宥めていた二人だ。解放の時を待ち望んでいた喜悦の波は津波と化し、誰にも止める事など不可能な激しさで彼らを襲った。
 最後の瞬間は、声を上げる事すらできなかった。ただ全神経が灼きつくされるのではないかと思うほどの熱を伴った快楽が二人の中を駆け巡り、目の前が真っ白になる。自由落下にも似た絶頂感の最中、彼らは自分を抱きしめるその人の、そしてその人への愛を、これ以上になくはっきりと感じていた。

* * *

 吹きすさぶ風はいまだ冷たく外出に際しては分厚いコートが手放せないが、セントラルパークの木々にも、慎ましやかな蕾が時季を確かめるかのようにそっと顔を出しはじめている。最近では日曜日の午後の日課となりつつある家族揃っての散歩中に、両親の先を行っていた少年が、ふと足を止めて振り返った。
「そういえば、ケネスってもうすぐヨーロッパに行っちゃうんでしょう? フェアウェル・パーティは開かないの?」
「一応、社では開く予定だが……お前も送別会をしてやりたいのか? 別に普通に見送りすればいいだけの話じゃないか」
「それじゃ僕の気がすまないの! ケネスは父さんの部下で友達だけど、僕のお兄さん代わりでやっぱり友達でもあるんだから、きちんとお見送りしたいって思うのは当然でしょう?」
 つんと唇を尖らせながらこまっしゃくれた言葉を口にする息子に微笑んで、マデリーンはアマデオの後方支援に回る。
「そうね、確かにアマデオが正しいわ。それに私、ケネスと約束していたの。バレンタインに協力してもらう代わりに、彼の好物を存分に振舞ってあげるって。だからいずれにしても、一度はきちんと招待しなければならないのよ」
 一瞬不満げに顔を歪めたランドルフだが、妻が口にした『約束』の言葉が先日のサプライズにかかっていると知って、複雑な表情になる。そんな父親を見て、少年とその母親は顔を見合わせて明るく笑う。
「まったく……本当に父さん、僕の父さんなの? 前の父さんとあんまりにも違いすぎていまだに信じられないんだけど」
「正しく同感だわ。私も実は中身は別人なんじゃないかしらって思う事がまだたびたびあるの」
「やっぱり?」
「ええ」
 本人を目の前にしての密談に、再びランドルフの顔が渋くなる。
「まったく……お前たち二人は、どうしてそんなに俺を仲間外れにするのが好きなんだ?」
「だって、仲間外れにでもしなきゃ、父さんがいるところで僕が母さんを独占できるチャンスなんてゼロなんだもん。息子として母さんを独占する権利を行使するのは当然だよ」
「ジュニア、お前……」
 嘆息する父親に、息子は大人顔負けの理論を口にする。思わず本気で唖然とする夫に対して申し訳ないと思いながらも、マデリーンはとうとう我慢しきれず吹き出した。
「残念だけどドルフ、今回はあなたの負けね。それに、アマデオに口で勝とうとしても中々難しいと思うわよ。だってこの子は、見た目だけじゃなく中身まで実にあなたそっくりなんだもの。口論する事を考えるなら、相手が自分自身でも言い負かせられるって思えるだけの論拠と理論で武装しなきゃ、こてんぱんにやられちゃうのは……どちらかしらね?」
「マディ、君までジュニアの肩を持つのかい?」
 愕然として見つめてくる夫の頬に、カーフの手袋に包まれた手でそっと触れる。
「馬鹿ね。私はどちらの肩も持ってないわ。ただ、事実を口にしただけ。それに、ほら、考えてもみてちょうだい。アマデオが私の占有権を主張するのはせいぜいがあと数年程度の事なのよ。ハイスクールにでも入ったら、ガールフレンドとべったりくっついていたがるようになるのが目に見えてるじゃない」
「そうか?」
「ええ」
「やけに自信満々だが、何か根拠でもあるのかい?」
 妻が自分の味方をしてくれなかった事で拗ねてしまったらしいランドルフは、いつになく疑り深い。これが他の人間であれば、きっと面倒くさいと感じただろう。だが相手は彼女が全存在でもって愛している夫なのだ。こんな子供っぽい面を露にしてまで甘えてくれているのだと考えるだけで嬉しさが胸に溢れ出す。
 感情を隠す必要もないのだし、愛し合う両親の姿を息子が見るのも悪い事ではない。そう判断して、マデリーンはヒールの踵をほんの少し持ち上げると、羽のようにふんわりとしたキスを夫の唇へと贈った。
「根拠はあなた自身よ、ランドルフ・アマデオ・モーガンヒル・シニア。あなたが可能ならば仕事にも行かずに私と一緒にすごしたいと冗談でなく口にしてそれを実行しようとしているというのに、どうしてあなたそっくりの息子が同じ事を考えないと思うの?」
「……なるほど」
「え、あの、父さん? そこ、納得していいの?」
 母親の言葉に対してあんまりにも素直に父親が頷いたものだから、少年は逆に戸惑いの声を上げてしまう。いつの間にか妻の身体を腕の中に閉じ込めてしまっているランドルフは、ほんの数秒前までの様子が目の錯覚か何かだったのだろうかと思ってしまいそうなほどに自信たっぷりの顔で頷いた。
「お前の母さんが言ったとおり、お前が俺に外見だけでなく中身も似ているのは事実だからな。自分自身をお前の立場に置き換えて考えればすぐに彼女の言葉が正しいとわかる。しかもお前は、すでにロビンというガールフレンドがいる。だからきっと、ハイスクールに入るのを待つまでもなくお前の関心は彼女の方にのみ向けられる。もちろん、その後もお前がマデリーンをないがしろにするとは思わないが、俺と取り合う必要はなくなる。――ああ、それに、妹が生まれればお前の意識はそっちにも向かうか」
「い、もうと……? え、それってつまり、僕に妹ができるって事!? そうなの母さん? 母さんのお腹に赤ちゃんいるの?」
 完全に寝耳に水の知らせを受け、少年は目を輝かせて母親を見上げる。おかげで今度は、マデリーンが渋い顔になる番だった。
「残念だけれど、まだ赤ちゃんはいないわ。まったくもう、あなたときたら! まだ何もわかってないのに勝手な事言わないでちょうだい」
「確かにまだわかってはないが、いてもおかしくはないだろう?」
「可能性がある、と、確実である、には大きな隔たりがあるのよ。それがわからないあなたじゃないでしょうに……」
「だがね、俺は次の子供がそう先になるとは思ってないんだよ。なんとなくだけれど、今年は無理でも来年のクリスマスにはピンクのベビー服を着た君にそっくりな天使が我が家ですやすやと眠っているような気がしてね」
 一見穏やかな笑顔の奥で、茶色の瞳が挑戦的に煌いている。きっと彼は、自分自身の言葉を現実とするためにはいかなる努力も惜しまないだろう。そしてマデリーンは、大変な事になったと思いながらも、自分が彼の望みをかなえるために最大限の協力をするだろう事に気づいていた。
 それがどんなに大変な事だとしても、家族が増えるのは幸せが増える事に他ならないのだ。
 ああでも、本当に自分そっくりの娘が生まれたら、きっと二人のランドルフは口うるさい父親と兄になるだろう。結婚相手はもちろんの事、ボーイフレンドを見つける事さえ、並でなく大変そうだ。甘えん坊だけれど自分の意思をはっきりと持つ少女が心配性な二人に対して少しばかり拗ねてみせれば、きっと二人はおろおろと取り乱して、本心はともかく付き合いだけは認めるだろう。きっと、何かと邪魔はするだろうけれど――
 そんな未来予想図が、まるで本当に目の前で繰り広げられているかのような詳細さでもってマデリーンの脳裏に繰り広げられる。
 ランドルフ曰くの天使がやってくる時期はともかく、今白昼夢にみた光景は、きっといつか現実になるだろう。不思議なくらいはっきりとした確信を覚えながら、マデリーンは夫へと拗ねたような視線を向ける。
「でもあなた、そうなったらきっと、私とその子であなたを取り合う事になるんじゃないかしら。だって私そっくりな娘なら、きっと私と同じくらい、あなたを愛してしまうに決まっているし、きっとあなたも私がそうだったように、“小さな私”に夢中になるのだわ」
「……それは、嫉妬かい?」
「あら、私が嫉妬しては駄目だというの?」
「まさか! 俺は単純に喜んでいるんだよ。何しろ君が俺に対して嫉妬を見せてくれたのはこれが初めてなんだからな」
 その言葉が事実である証に、彼の顔は一片の陰りもない笑みを浮かべている。これしきの事で、とも思うが、夫が以前口にしていた、嫉妬する姿を見てみたくてプレイボーイの真似事をしていたという言葉を思い出し、マデリーンはそっと苦笑を浮かべた。
「喜んでいられるのは今のうちだけかもしれないわよ。だって私、本当はとっても嫉妬深いんだもの。もしかすると、その子と私であなたを取り合うかもしれないわ」
「それは、本望だな。君の言うとおり、俺はきっと“小さな君”に夢中になるだろうし、溺愛するだろう。だが、安心してくれていい。いずれ手放さなければならない娘は、放っておいても出て行くだろう息子に任せて、俺は一生一緒にいる君を優先すると誓うから」
「あなたってば、もう、本当に……」
「……やっぱ父さんの中身、宇宙人かも……」
 完全にあきれ果てた目を妻子から向けられながらも、ランドルフはまったく気にした様子がない。それどころか悪びれもせず本人を目の前にとんでもないコメントばかり口にする息子に、鋭い視線を投げた。
「そこのチビ、非現実的な憎まれ口を叩くのもいい加減にしろよ」
「非現実的なのはここ最近の父さんだからノー・プロブレム」
「ほう……つまりお前は、徹底して俺に抗戦するんだな? いいだろう、受けてたってやる。そこに直れ!」
「げっ、やばっ! 母さん、父さん引き止めてよ!」
 ぱっと母親から腕を離して自分へと俊敏な動きで駆けてくる父親を見て、少年は母親に助けを求めながらも逃走に入る。大人気なく本気で息子を追い掛け回す夫の姿に笑みを誘われながら、彼女は愉しげに返した。
「公正を期するためにも、今回は私、お父さんの味方をするわ。がんばって逃げきってちょうだいね」
「母さんの裏切り者ー!」
 非難の声が寒空に響いて程なく、大人のリーチから逃れきれず、あっさり捕まった少年が歓声とも悲鳴ともつかない声を上げる。日頃の恨みを思い知れ! とばかり、思う存分息子を放り投げてはこねくり回す夫と、好き勝手されながらも楽しげな息子。心から愛する二人のじゃれあう様子はそれはマデリーンにとって、幸せの肖像に他ならない。
 それを手に入れられた幸運に心の底から感謝をしながら、大切な家族をその腕で抱きしめるため、彼らの元へと向かって歩きはじめた。