かぶ

Goodbye To You, My Love : Clive - 05

 告げられた別れの言葉に茫然自失となっていたクライブが現実へと立ち返った時には、手の中の携帯電話はすでに省電モードに入っていた。
 壁にかかった時計へと急いで目を走らせれば、まだ通話が切れてからそう時間が経っていない事に気づく。今更かと思いながらも慌てて恋人へと繋がる短縮番号を押したものの、返ってくるのは電源が切られている事を告げる無機質な機械音声だけだった。
 クライブからの電話を怖れてか、それとも病室に戻るためか、いずれかの理由で電源を落としたのだろう。こうなれば最低でも朝までは連絡を取る事ができない。その気になれば、彼女が今いる病院の電話番号を調べて呼び出す事も不可能じゃない。けれどそんな非常識な手段を用いて事を大きくしてしまえば、却ってジョージーナを追い詰めてしまいかねない。
 こんな事ならジョージーナが何を言おうとついていくべきだったなどと、今更な考えが頭を過ぎる。そうすれば何かが変わっていたはずなのに。
 でも、何が?
 別れの言葉を吐くその瞬間にも愛を伝えてきた彼女が、それでもクライブとの別れを選ばなければならないというような状況は、彼が彼女のそばにいれば覆せたような、そんなものなのだろうか。
「くそっ……! 一体向こうで、何があったんだ!?」
 苛立ちと焦燥に暴れそうになる。そんな事をしても意味がないと知りながら、タクシーで空港へと乗りつけ、朝一番の便でケンタッキーへと向かいたいと、そんな考えばかりが浮かんでくる。
 だけど、それはできない。
 そんな事をしても、ジョージーナは喜びはしない。それどころか、クライブに仕事を放棄させてしまったと、むしろ自身を責めてしまいかねない。
「ジーナ……どうしてなんだ?」
 繰り返しても意味のない問いかけを口にして、彼はぼすんとソファに倒れこむ。
 とにかく今は、何をする事もできない。まずは朝になるのを待って、それからジョージーナに電話を入れよう。そうしてまずは話をする。なぜこんな事になっているのか、その理由を聞き出すのだ。ただ駄目だと、ごめんなさいと言われただけでは納得も理解もできるはずがない。別れの言葉を取り消すよう説得するのは、彼女の事情を確かめてからだ。
 ――そんなクライブの決意を知っていたのだろうか。朝から繰り返しかけた電話が一度も繋がらなかった代わりに、彼女は直接雇い主へと、辞意を伝える電話を入れていた。
「一体、どういう事なんだ?」
 さすがに顔色を変えて詰め寄ってきたゲオルグにクライブが返せたのは、困惑の溜息だけだった。
「わからないんです。今朝早くにアネットの――彼女の母親の死を知らせる電話を受けました。それに続いて、僕が慰めの言葉を十分に伝える間もなく告げられたのが、別れの言葉です」
「……それは」
「実のところ、今も混乱していて……一体何があって、どうしてそんな結論を出したのか、それを教えてくれたのならまだ対処のしようもある。だけど彼女は、ただごめんなさいと謝るばかりなんです。戻れない。一緒にはいられない。そう繰り返すばかりで、全然建設的な話ができなくて。最後には一方的に電話を切られて……今朝から何度も彼女の携帯電話にかけてるんですが、一度もかからないままです」
 一人掛けのソファに深く沈みこんで力なく首を振るクライブへと沈鬱な視線を落とし、ゲオルグは慎重に訊ねる。
「それで、君はどうするつもりだね?」
「正直、どうするのが正しいのかわからないんです。ただ、このまま彼女を手放すわけにはいかないという、それだけしかわからない。できる事なら今すぐにでも彼女の元に駆けつけて、必要ならば縋りついて、平伏して、懇願してでもいいから、別れの言葉を撤回させたい」
「ならなぜ君はここにいるんだ?」
 呻くように言葉を綴る秘書へと、上院議員は鋭く問う。そんなにも彼女を求めるのならば、なぜ心のままに行動しないのかという詰問がそこには確かに含まれていた。
「したいのは山々です。ですがそんな事をすれば、ジーナは余計に頑なになってしまうと、僕は知っているんです。だから週末まではきちんとやる事をやって彼女を迎えに行きます。もちろんそれまでにも電話やメールでコンタクトを取るつもりですが、直接顔を見て話すのでなければ、どんな言葉を告げられたとしても、僕は納得できないでしょう」
「――この土曜には、チャリティに参加する予定だったはずだが」
「ええ、知ってます。でも、僕がいてもいなくてもいい行事じゃないですか。場慣れさせるためにも、ドムに同行するよう、指示を出しておきます」
 無意識にモードを切り替えて判断を下す。ふ、と仄かに笑う気配がして見上げれば、ゲオルグは思いがけず優しい目で自分を見つめていた。
「そうだな。確かにお前じゃなくてもいいイベントだ」
「はい」
「……金曜は、なるべく早目に帰宅できるよう予定を再調整してくれ。打ち合わせの都合もあるから、ドミニクにもその日は同行してもらおうか」
「承知しました」
 頷いて、手元の手帳へと必要事項を書き付ける。それからぱたんと分厚いそれを閉じ、クライブは改めて上司へと視線を向けた。
「なんだ?」
「いえ、ただ、その……ありがとうございます」
 こうして面と向かって礼を言うのはなんとも気恥ずかしいものだ。その証拠に、ジョージーナの電話が切れてから、まったく血の気を感じなかった頬が、ほんのりと熱くなっている。
 それに気づいたのだろう。ゲオルグは低く笑うと、丁寧に撫で付けられているクライブの髪を、くしゃりと撫でた。
「お前の熱意と情熱が正しく彼女に伝わるよう、私も祈っておこう」
「ぜひ、お願いします」
 乱された髪を手櫛で整えながら、クライブは真摯に返す。今の状況では、たとえ実際の助けにはならないとしても、自分の意思を擁護してくれる誰かがいるというのは、驚くほどに心強く感じられた。

* * *

 番号を見て居留守を使われるかもしれないと恐れながらもジョージーナの携帯電話へと発信した通話は、募った焦燥が不安へと変質しかけたその刹那に受領された。
「ジーナ、君かい?」
『……ええ、私よ』
 思わず勢い込んで問いかけると、疲労が濃く混じった声が肯定した。
「今、電話していても大丈夫かい? 忙しくはない?」
『うん、大丈夫。……丁度ね、明日の準備も終わって、部屋に戻ってきたところだったの』
「そうだったんだ。お疲れ様」
 今朝方の電話と違い、疲れを滲ませてはいても穏やかな声に、クライブは安堵を覚える。無意識に強張っていた背中をリラックスさせ、ソファの上で身体を伸ばす。
『本当に、疲れちゃった。何しろ専門家のはずのお父さんが全然役に立たないんだもの。仕方がないから私がほとんど全部引き受けてしまって、夕方になるまで食事の事も思い出せなかったわ』
 電波越しに伝わってきた微笑む気配に、腕が愛しい女性を抱きしめたがる。抱きしめてその髪を、背中を撫で、癒しのキスを顔中に降らせてやりたかった。
 とつとつとその日にあった事を話すジョージーナの声へと相槌を打ちながら、自分はどうして彼女の傍にいないのだろうかと、一体何度目になるのかわからない疑問を脳裏へと浮かび上がらせる。それに対する答えはあえて考えず、ただ綴られる言葉を受け止める事に集中した。
『――もう、知ってるわよね。私、フォルトナー議員に……』
 一通り話し終えた後、束の間の沈黙を置いてためらいがちに切り出された話題の行く末を察し、改めてその意思を彼女の口から聞きたくないと、咄嗟に言葉を遮った。
「ああ、聞いたよ。とても驚かれていたし、戸惑ってもおられた。どういう事だと聞かれたから、現在君の意思を変えるために奮闘しているところだと返しておいたよ」
『クライブ……』
「まさかあんな一方的な言葉で僕が納得したなんて思ってないね? 僕はこれまで、僕が選ぶのは君だと何度も繰り返してきていたはずだ。そう簡単に僕は君を諦めない」
『でもクライブ、私は――』
「どうしても諦めさせたいというのなら、そうだな。まずはきちんと理由を説明してくれ。そしてその上で――本当は面と向かってが望ましいけれど、今は電話越しでかまわないから……」
 ゆっくりと息を吸い込む。
「――僕を愛してなどないと、告げてくれ」