かぶ

Goodbye To You, My Love : Clive - 06

 はっきりと、彼女が息を呑む音が聞こえた。数秒間の重苦しい沈黙に続いたのは、ひび割れた詰り声だった。
『酷い事を、言うのね』
「その酷い事を言わせたのは君だ、ジーナ。そうでも言われない限り、僕は君を諦めるなんてできない。……いや、言われてもきっと無理だ。君が僕を捨てたとしても、僕は一生、君を愛し続ける」
『そんな……そんな事ないわ。だってクライブ、あなたならそれこそいくらでも他の女性が……』
 戸惑いが混乱へと変質するのが声と言葉にはっきりと現れている。彼女の震える声が言葉を紡ぐたび、まるで鋭いガラス片で心臓を切りつけられているような痛みがクライブを襲っていた。
「他の女性だって? ああ、そうだね。確かに君以外にも女性は存在するよ。――だけどジーナ、彼女たちは君じゃない。君でなければ、僕にはそれがスーパーモデルだろうと映画女優だろうと大富豪の娘だろうと、大した意味を成さない」
『クライブ……』
 呆然と呟かれる自分の名前に、クライブは思わず自嘲を漏らした。
 なんという事だろう。ジョージーナは、自分がどれだけ彼に愛されているのか、まったく理解していなかったのだ。深く愛し合う両親の間に生まれてきた娘が、刹那の恋を楽しんでいたというのか。彼との事をいつかはいい思い出に変えて、他の男と結婚するつもりでいたのだろうか。
「……ねえ、ジーナ。君は僕との未来を、夢見た事は一度もなかったのかい?」
 問いかけた声は、自分でもぞっとするほどに冷たい響きを伴っていた。
『そ、れは……』
「それは?」
『ない、わけじゃないわ。だけど……だけどあなたは、いつかはフォルトナー議員の後継者となるのでしょう? 国政を左右できるような強力な政治家になって、アメリカに蔓延している経済格差の弊害を少しでも緩和するのが夢だって、そう言ってたじゃない。その夢の邪魔を、私はしたくないの。それに、私がいては議員だって――!』
 そんなものは過去の夢だと反駁しかけたクライブは、しかし彼女が最後に口にしかけた言葉に思わず考え込む。
 ジョージーナが「議員」と言う時に意味するのは、ほぼ間違いなくゲオルグの事だ。
 確かに彼女が採用された当時、ジョージーナはゲオルグの愛人なのではないかという無粋な噂が流れたりもした。しかし彼女が議員夫人や議員令嬢らと親しく出歩いている姿や、クライブとデートを重ねる様子が目撃される回数が重なるにつれ、ただのデマでしかないと世間は正しく理解したはずだ。
 それなのに、なぜ、彼女がゲオルグの邪魔になるというのだろうか。
「ジーナ、君……」
 ふと浮かんだのは、ジョージーナがクライブとゲオルグを二股にかけていた、という疑念だが、それを言葉にしかけた瞬間、そんな事は有り得ないと否定した。
 政治家の中にも自分を特権階級にあると見なしてでもいるのか、金や権力にあかせて若い愛人を何人も抱え込んでいる男がいる。けれどゲオルグは、主権者である国民の目を常に気にして行動しているし、その行動規範として家族に対して疚しい真似はしない、という箇条を掲げてもいる。だからこそ、賄賂を受け取る事もなければ、魅力的な誘いになびく様子すら見せた事もない。
 だがそんな事よりも、ジョージーナの性質を考えれば自然と答えは知れてしまう。
 あの日、初めて夜を共に過ごした日に彼女が自ら告げたとおり、ジョージーナはベッドの中では驚くほどに情熱的な面を見せるのに、クライブ以外の男性からの誘いはぴしゃりと撥ねつけ、一度も乗った事がない。
 立場上、各界の名士と呼ばれる人間と出会う機会は数多にある。二人が付き合いだした始めの頃は、そういった男性たちがジョージーナに関心を見せるたびに、彼女は自分よりも条件のいい男に流れていくのではないだろうかとやきもきしたりもしたのだが、態度の上ではやんわりと、しかし誰の目にも明らかなほどはっきりと拒絶の意思を伝える姿を見て、彼は自分が彼女の特別なのだという自信を少しずつ培ってきた。
 ――だからこそ、この突然の心変わりが理解できなかった。
 長く長く、肺が空になる程に深く息を吐き出し、クライブははっきりと告げる。
「駄目だ。そんな理由じゃ、僕は納得できない」
『だけどクライブ、私は……』
「ジーナ、聞いてくれ。今は二人とも感情的過ぎるし、混乱してしまっている。これ以上議論を重ねても堂々巡りするだけだ」
 口にしてはじめて、ダニエルは自分の言葉が妥当なものだと気づく。荒れつつある感情を無理やり抑え込み、努めて冷静さをまとう。どんなに心が騒いでいても、今はいけない。このまま話を続けていたら、きっと双方共に口にしてはならない事までも口にしてしまう。
 もう一度、今度は熱くなっている頭を覚ますために深呼吸をする。
「考えてごらん。君は昨日、かなりの強行軍でもって帰郷し、お母さんを看取った。それから僕と話をして、眠ったのは今日の未明だったよね。それに加えて、目を覚ましてからはお父さんの代理で必要な手続きや準備をしていたといっていたね。それで心身ともに疲れきっていないはずがない。何より僕の記憶が正しければ、僕は一昨日の晩、君をあんまりしっかり眠らせてあげてなかったはずだ」
 クライブ! と、悲鳴にも似た声が耳に突き刺さる。電話の向こうで顔を真っ赤にしている様子が易々と思い浮かび、二十時間ほど前にジョージーナの電話を受けてから初めて、クライブは心からの笑みを浮かべた。
「そんな状態でこの僕と口で争うのがどれだけ自分にとって不利なのか、わからない君じゃないだろう? だから今夜は休むんだ。明日もまた、現実に立ち向かわなければならないんだからね」
 これが問題の先送りでしかない事がわからないほど、クライブは愚かでも盲目的でもない。
 今もまだ、はっきりと状況を掴めてはいないものの、冷静になって考えれば見えてくるものもある。
 帰郷したジョージーナを待っていたのは、母親の死だけではなかった。何があったのかは不明だが、その何かは肉親を失い弱っていたジョージーナの心を強烈に揺さぶるだけの影響力を持っていた。
 更に加えるならば、その問題は、多少時間が経過しようと、簡単に消え失せてくれるようなものではない。
 そう確信できるだけのものが、ジョージーナの態度には表れていた。
 だからこそ今は、この問題に決着をつけるまでの時間を少しでも引き延ばす事が肝要に思えた。
「全てが片付いて、君の身の回りが落ち着いてから、もう一度ゆっくりと話をしよう。――ああでも、これだけは先に言っておくよ。僕の心はもう決まっている。君が頑固な事はよく知っているが、僕も一度決めた事を簡単に翻すような男じゃない。僕をやりこめるちょっとやそっとの理論武装じゃ到底追いつかないよ。それこそアンクル・サム(*)を相手に戦争するくらいの気概が必要になる。何しろ僕は、曲がりなりにも国政を司る政治家を目指していたんだ。それなり以上に頭も口も回るし、詭弁の扱いだってお手の物だ。高校から大学の間に五つの弁論大会で優勝しているしね。――どうだい? 自分がどれだけの難事に立ち向かおうとしているか、少しは理解できたかな?」
 冗談めかしたクライブの言葉に、電話口で、やだ、と吹き出す声が聞こえた。どうやらほんの少しは気分を上向ける事に成功したらしい。安堵が胸に湧き上がり、意識するより先に本音が口から零れ落ちた。
「……やっと、笑ってくれたね」
『クライブ……』
「それでいいんだ。僕は君に、いつだって笑っていてほしいと願っているのだから」
『……ごめんなさい』
「お馬鹿さんのジョージーナ、そこは謝るところじゃないだろう? 今の君は少しばかり沈んでいるだけなんだから、まずはゆっくりと休養を取るんだ。そうすればきっとすぐに、僕の大好きな君が戻ってくる」
 賭けの気分で告げた言葉には、案の定、沈黙しか返ってこなかった。
 向こうには聞こえないようにとそっと息を吐き出し、クライブは殊更に優しく囁きかける。
「ほら、もう眠るんだ。君が望むなら、眠りに着くまでずっと話をしていてもいいし、電話越しでよければ子守唄を歌うよ?」
『ふふふ、ありがとう。……でも、大丈夫。私は、大丈夫だから』
 まるで自分自身に言い聞かせるようなその言葉が、どうしようもなく胸に痛かった。だけど今、わざわざそんな事を口にする必要はない。
「そうかい? なら、残念だけれど、通話はお仕舞いかな」
『ええ、そうね……って、クライブ、あなたも寝なきゃじゃない!』
「僕は大丈夫。君もよく知っているとおり、こう見えて僕は意外にタフだからね」
 ようやくいつものジョージーナらしさが戻ってきた。目隠しをしたまま断崖絶壁を歩むような心境から開放されたクライブは、意識しないうちに固くなっていた身体を軽く解す。
「それじゃあ、そろそろ寝ようか。ボストンとケンタッキーに分かれているから悪い風評は立たないだろうけれど、二人して朝からグロッキーな顔を周囲に晒すのはあまりいい事とは思えないからね」
『確かに、それは困るわね。特にあなたは議員の代理人の役目も担っているんだもの。ぴしっとしてないと議員の顔に泥を塗る事になってしまうわ』
「ジーナ、君、心配しているのは僕の事じゃなくてゲオの事なのかい……?」
『あら、そんなの、私にとって最優先事項は当然……』
「ジョージーナ!?」
『……あなたに決まってるじゃない。もう、それくらいわかっていてちょうだい、お馬鹿さん』
 悲鳴に似た声を上げたクライブに、柔らかな声が甘く囁く。たったこれだけの事で天国と地獄を行き来してしまうあたり、どうしようもなく彼女が必要なのだと幸せな自嘲が胸に広がる。
 だからこそクライブは、何としてでもジョージーナをこの手の中に取り戻さなければならない。
『じゃあ、私はこの電話を切ったら、すぐにでもベッドに入る事にするわ。あなたもちゃんと眠ってね? 間違ってもソファで寝るなんて横着はしちゃ駄目なんだから』
「ああ、わかってる。ちゃんとベッドに入って寝る事にするよ」
『絶対によ? 見てないからって嘘は吐いちゃ駄目なんだからね?』
「安心してくれ。僕は君に嘘は吐かない。何にだって誓うよ」
『そうね。信じてるわ。それじゃあ……おやすみなさい』
「ああ、おやすみ、ジーナ。――愛してるよ」
 辛そうな息が耳に届く。けれどそれに続いて聞こえてきた私も愛してる、という幽かな呟きに、クライブは不覚にも泣き出してしまいそうになった。まったく、真剣な恋愛なんてするもんじゃない。別にマッチョを気取るつもりはないが、恋をする事でここまで女々しくなってしまうなんて、思ってもみなかった。
 半身を断ち切られるような気分に陥りながらも通話を打ち切ったクライブはソファから立ち上がり、そのまままっすぐに寝室へと向かった。
 ぼすんと顔を埋めた枕にはまだジョージーナの髪の匂いが残っている。切ない思いで息を吸い込むと、今は遠く離れている恋人の残り香を抱きしめ、強く目を閉じた。
 ――闇がその帳を上げる刻限は、まだ遥か彼方のように思えた。