かぶ

Goodbye To You, My Love : Daniel - 01

 暮れぬ昼はなく、明けない夜はない。しかし覚めない悪夢は存在するのだと、彼は麻痺したような頭でぼんやりと考える。
 凶報を告げられてからの三日間――そう、三日だ。三週間でも三ヶ月でも三年でもない。たったの三日間なのだ――は、まさしく覚めても覚めても抜け出せない悪夢の中に閉じ込められているような気分だった。まったく現実感のないままに全てが進められ、気が付いた時には何もかもが終わっていた。
 今は一人ぼっちの薄暗い書斎で革張りの椅子に全身を預け、宵闇に沈んだ庭を眺めるでもなく眺めている。
 ケンタッキー州の西方に位置する小さな町ボーリング・グリーンで弁護士をしているダニエル・ニコライにとって、妻のアネット・ニコライは人生における夢であり、太陽であり、崇めるべき女神であった。
 もちろん娘のジョージーナを心の底から愛していたが、「ダニエルはアネットの歩いた地面にすらキスしかねない」という、本来ならジョークになるはずの軽口が、うっかりすると軽口で済まなくなる程度には妻を愛していた。
 実際この二十年というもの、「愛妻家といえばダニエル・ニコライ」と町の人々が真面目な顔で答えるほどに、彼の妻への溺愛っぷりは有名だった。
 大した事件など起きるべくもないのどかな町では、弁護士と言えどもそう裕福になどなれるはずがない。また、法律が関わってくるような問題も大して起きないため、彼の事務所はほとんどの時間、閑古鳥のいいねぐらとなっている。
 それを幸いにとアポイントメントのない午後はあっさりと仕事を切り上げて帰宅し、家事をこなす妻を助けては二人の時間というものを満喫していた。そしてその度合いは数年前に娘が都会へと出ていって以来ますます酷くなっており、いつも控えめでおとなしい性質のアネットが、少しばかり行き過ぎているのではなくて、と苦笑混じりに苦言するほどだった。
 その日ダニエルは、町の中心となっている大学で盛大に乱闘を繰り広げた挙句、見せしめとしてしょっ引かれた少年たちのために、警察署にて細々とした法律関係の書類をまとめていた。
 本来であれば、帰途についているはずの時間である。事務所を出る前に、帰りが少し遅れそうだと電話をかけたところ、ならその間に買い物をすませておくわねと、柔らかい声が返してきた。彼としては重い荷物を持たせる可能性を鑑みて、仕事が終わるまで待っててくれと言いたかったのだが、よりにもよって身元引受人となる親元から離れてきた少年たちの間で勃発した喧嘩だったため、最後まで面倒を見てやる必要がある。夕食の時間には間に合うだろうが、その準備に入る時間までに帰る事は無理そうだと判断して、渋々と了承の言葉を返したのだ。
 それは、少年課の警部に懇々と説教を説教を食らっていた少年たちが、さすがにしょげ返って取調室から出てきた直後の事だった。やっと帰る事ができると安堵の息を吐こうとした矢先、聞き慣れた声に呼び止められた。
「ダニー、交通事故発生だ。州道でトレーラーが自家用車にぶつかったんだが、どうやら奴さん、この時間から居眠りしてやがったらしい。そこの連中はこっちで警官に送らせるから、すまんがもう少し残ってもらえるか?」
「構わないが……ったく、今からだとネッティの夕食が冷めちまうじゃないか」
 あからさまに不機嫌になる弁護士に苦笑して、交通課の警視が続ける。
「すまんな。だが、どうもガイシャが地元の人間のようでな。いずれにせよお前のところに話が行くんだから、二度手間になるよりはましだろう?」
「まあ、そりゃあそうだが。ところで災難を被ったのが誰なのかはわかってるのか?」
「それが何しろ正面衝突で、車のボンネットが酷い事になっているらしい。今は潰された方の運転手を救出中らしい。だが、程なく情報が回ってくるだろう」
 渋い顔になる警視にこちらも沈痛な顔で頷く。
 何しろ小さな町なため、ほんの数年だけを過ごしては出て行く学生たちを除けば、ほとんど全ての町民の顔も名前も知っている。ずっとこの町で生まれ育った人間であれば、若気の至りの大方が知れ渡っていると考えて差し支えない。
 だからこそ、顔見知りの誰かが事故にあったというニュースに軽口を返しつつも、内心では純粋に心配していた。
 その時、不意に交通課の方から悲鳴が聞こえてきた。何事かと顔を見合わせた時、顔を蒼白にした警官が廊下へと飛び出してきた。
「警視、被害者の身元が判明しました! ですが……」
「何を迷ってる。さっさと言え。一体誰なんだ?」
 せっかちに問いかける上司に対し、どのように言葉にすればいいのかがわからない。そんな様子で言葉に淀んだ後、青年警官は思いつめた顔をダニエルへと向けた。
「……アネット・ニコライ。ミスター・ニコライの奥様です」
 その瞬間、世界が崩壊するとはこういう事かと考えた事を、なぜかやけに鮮明に覚えている。

* * *

「お父さん、ここにいるの?」
 妻の声よりも低いアルトの声の呼びかけに、ダニエルはゆっくりと顔を上げた。黒い喪服に身を包み、黄金色の髪を巻き上げた姿の娘は驚くほど大人びていた。
 いや、それも当然か。彼女はもう二十四になっている。仕事だって持っているし、将来を考えるような恋人だっている。いつまでもダニエルとアネットの「小さなかわいいジーナ」ではいられないのだ。
 実際彼女は、妻の死に打ちのめされて使い物にならなかった父親に代わり、実に気丈に全てを取り仕切ってくれた。ボストンでやってる事と大して変わらないからと笑っていたが、日常的にやっている事だというのに何一つできなくなっていた自分とは大違いだ。
「ジーナ」
「ああ、よかった。どこにいるのかってさっきから探していたの」
 僅かに笑みを浮かべながら書斎へと入ってきたジョージーナは、広い書斎机の前でほんの少し逡巡した後、ためらうような足取りで、ダニエルの下へとやってきた。
「さっき、最後のお客様をお見送りしたわ。これでしばらく、ゆっくりできそうよ」
「ああ。……すまないな、何から何まで任せてしまって」
「やだ、そんな事気にしないでよ。私は……お父さんの娘なんだから、当然じゃない」
 ぎこちなく微笑んで、幼い頃によくやっていたように、彼の足元に膝を突く。そしてそのままダニエルの太ももに腕を乗せて、甘えるように身を寄せた。
 しっかりとまとめられた髪を崩さないように気をつけながら、そっとその頭を撫でると、ジョージーナがほっとしたように緊張を解くのがわかった。
「そうだな。お前がいてくれて本当に助かったよ」
「でしょう? ボストンに行かせた事、少し後悔したんじゃない?」
「少しどころじゃないさ」
「……だったら、お父さんのところで雇ってくれてもいいわよ」
 平坦な、感情のこもらない声が綴った言葉に、ダニエルは娘の髪を撫でる手を止めた。
 ジョージーナは外見的には両親のどちらにもあまり似ていない。
 太陽光を思わせる金の髪は、父親のくすんだ金髪や母親のプラチナブロンドとは趣きを異にする。ベールブルーの瞳も、ダニエルの濃い青の目とは似ていないし、何より顔の造形における特徴があまりに違う。ジョージーナは養子なのでないかという噂が流れた事もあったが、この小さな町の中には、アネットが女児を出産した事を知るものが数多いたし、何より赤子が少女へと、そして女性へと成長する様子を見守ってきた人間が数え切れないほどいたため、あっという間にガセネタとして片付けられた。
 そんな彼女は、父親の欲目かもしれないが、ふとした仕草や表情が驚くほどアネットにそっくりだった。最愛の妻によく似た笑顔や泣き顔で何かをお願いされて抗いきれた記憶は、数えられるほどもない。
 今だってそうだ。真剣な表情の中に哀しみと、懊悩、そして悲壮感を浮かべている様は、遠い日のアネットをダニエルにまざまざと思い起こさせた。
 当時のアネットはまだ大学に在学中で、今のジョージーナより更に若く幼かった。
 ゴシップやアイドルに騒ぐ代わりに古今のロマンス小説を読み耽り、ダニエルには実に口惜しい事だったが、彼女曰く『大人で洗練された素敵な男性』との恋愛に憧れていた。だからこそ余計に出会いなどありえないケンタッキーの片田舎から飛び出したいと願っており、インターンシップという形でそのチャンスを見事掴んだのだ。
 おめでとうと口にしながらも、焦りがなかったわけではない。彼が地元にいる限りは傍にいるのが当然だった少女を、一時的にとはいえ手放す事になるのだ。それも彼女が憧れるような洗練された大人の男がいくらでも存在する都会へ。
 だからというわけでもないが、初めてボーリング・グリーンを単身で旅立つ少年少女らを集めたフェアウェル・パーティにて、ダニエルは頑ななほどアネットの傍にい続けた。
 ジュニアハイ、ハイスクール、そしてユニバーシティ、全てのプロムで、ダニエルはアネットを、アネットはダニエルを必ずパートナーに選び、その時ばかりはまるで恋人のように振舞った。
 ただし、あくまでそれは恋人『ごっこ』であって、恋人になれたわけではない。居心地のいい関係を壊す事が怖かったダニエルは、どうしても完全な恋人同士の雰囲気にまで導く事ができずにいたのだ。
 けれどその夜、ダニエルは戸惑いを見せるアネットに対して、彼女こそが彼が恋する相手なのだと、態度で示した。兄と妹でも、昔からずっと一緒に育ってきた幼馴染でもない。彼にとって恋人と呼びたいのは、他の誰でもないアネットなのだと。
 そのせいもあったのだろう。送別パーティが終わった後もなんだか名残惜しくて、二人はその夜、示し合わせてこっそりと家を抜け出した。眠たくなったら帰ろうと約束して、幼い頃によく遊んだ思い出の森へ向かったのだ。