かぶ

Goodbye To You, My Love : Daniel - 02

 ナッシュビルとルイビルを除けば都会らしい都会を知らないアネットは期待と憧れを飽く事なく語っていた。ただ、やはり不安も少なからずあったのだろう。甘えてくる彼女の頬に落とした友達としてのキスは、若さ故の情熱がその質を変化させた。花弁のような唇にキスを落とした時も、舌で甘い唇に触れた時も、柔らかな身体を抱きしめる腕に意図を持たせた時も、常にアネットの様子を伺っていた。
 初めこそ驚いた顔をしていた彼女もすぐにダニエルのキスを、愛撫を、恥ずかしげな笑みを浮かべながら受け入れてくれたのだ。
 恐ろしいほど長い間、この時を待っていた。アネットが彼を慕っていると知っていても、それが兄に対するものであるとも理解していたから、キスは常に額や頬、そして時々手の甲に軽く落とすばかりだった。長く焦がれていた唇は、本来味などないはずなのに全身が震えるほどに甘く、口付けを深めるたびに小さく漏らされた喘ぎはダニエルの中でアネットへの愛しさを一気に燃え立たせた。
 前の年のクリスマスに彼が送った香水の香る細い首筋に顔を埋めて鼻先で擽ると、鈴を振ったようなくすくす笑いが鼓膜を振るわせた。キスを落としてちろりと舌で触れると、苦味のある塩の味が口の中に広がった。ふるりと震えた身体にやりすぎたかと視線を上げれば、うっとりと上気した顔の中で、潤んだ瞳が笑みを浮かべていた。
 ――その夜、彼がそうしようと思っていれば、きっとアネットを最後まで奪えていた。
 けれどダニエルは敢えて彼女を求めてやまない手を引いたのだ。こんな場所で彼女に初めての経験をさせてはいけない、彼女を大切に思うからこそ、きちんとした場所で、などという奇麗事のおためごかしで、今すぐにでも本懐を遂げたいと叫ぶ自分自身の激情を無理やり抑え込み、ぎりぎりのところで身を引いた。
 どこか不満げな、不安げな少女の身体を強く抱きしめると、彼自身も彼女を求めて止まないのだと身体を寄り添わせる事で伝えた。きっと初めてその身で感じただろう男の欲望に息を呑んだアネットは、羞恥の中に密やかな誇りを浮かばせていた。
 これ以上一緒にいては抑えきれなくなるからと言い訳をしてアネットを彼女の家へと送り届けたダニエルは、恋人のキスでお休みを告げた。夜が明ければ、今度は彼女が旅立つのを見送らなければならない。その場にはアネットの両親もいるはずで、いつもの幼馴染に戻っていなければならなかった。
 だから、人前では告げる事のできない本心をここで伝えた。君が帰ってくるのを待っている、と。その時にはきっと、二人の関係を次の段階に進めよう、と。
 まだほんの少し不満げな顔をしていたアネットは、それでもダニエルの言葉に頷いた。きっとよ、と、その時を期待する言葉を口にして。
 翌朝に再会した時、アネットはまるで前夜の事が夢だったかのように振舞った。今は隠しておこうと言い出したのが自分だというのに、ほんの少し理不尽なものを感じていたダニエルだが、彼女の両親の目を盗んで落とした口付けに彼女が笑顔を返してくれた事で安心した。
 ゆえに、気づかなかったのだ。自分自身がどうしようもない間違いを犯していたという事に。恋を夢見る少女が最も求める言葉を、口にしていなかったという事実に。
 気づかないまま、せっかく手の中に留まっていた小鳥を大空へと放したせいで、ダニエルは彼女が戻ってきたその日まで、自らの過ちに気づかなかった。
 ひと夏を都会で過ごして戻ってきたアネットは、思わず本当にこれが自分が恋していた少女なのだろうかと目を疑うほどに様変わりしていた。まるでほんの少し突付くだけで砕け散りそうな様相の少女はあまりにもか弱く、彼女を守る騎士としての役割を己に課し続けてきたダニエルには、突き放す事などできなかった。
 故に彼は、彼女へとその腕を広げたのだ。逡巡しながらも飛び込んできた彼女を抱きしめ、二度と放すものかと過剰なまでの愛情で包み込んだ。そうしてこの二十五年以上の年月を、愛して止まない女性のために生きてきた。
 今回だって、そうしてしまえばいいと左耳の傍で悪魔が囁く。妻が産んでくれたたった一人の娘を手放す必要などない。もうすでに十分すぎるほど都会の生活は謳歌しているはずだ。たしかにこの町はその名前をジョークにされるほど退屈な町だが、それでも平穏で安寧とした生活は約束されている。
 けれど、それでも、父親として娘の幸せを望むとなれば、取るべき選択肢は一つしか残されていなかった。
「お前の気持ちは嬉しいよ。気落ちしている俺の事を気遣ってくれているのもわかっているし、確かにお前がいてくれれば、俺も心強いし何かと助かるだろう。だけどジーナ。それはお前が心から望んでいる事ではないだろう? 本当に傍にいたいのは、いてほしいのは、父さんじゃないだろう?」
「でも……でも、クライブは……」
 ジョージーナがとっさに口にした名前に、ダニエルは思わず破顔する。だがその表情もすぐに引き締め、説得の言葉を続けた。
「でもじゃない。彼は確かにお前を想っている。それは去年のクリスマスに会った時、嫌というほど見せ付けられたから確かだ」
 からかいの言葉を投げれば苦しげな表情がほんの少し和らぐ。やはり娘はあの青年を愛しているのだと改めて確信した。
「お前が色々な事に戸惑っているのも、混乱しているのもわかる。だが、安易な方向に逃げようとするのはいけない。一度逃げ込んでしまえば、再び自分自身の足で立とうとしても困難になってしまう。何より、自分が本当に必要としていたものが何なのか、求めていたものが何なのかが、自分自身にも、周囲にもわからなくなってしまう」
 束の間落ちた沈黙は、ためらいがちなジョージーナの言葉で破られた。
「それは……お父さんとお母さんの事を言ってるの?」
 投げられた問いかけがあまりにも、的を射すぎていて、図星を突きすぎていて、ダニエルは完全に言葉を失った。
 とはいえ、弁護士として長年生きてきた経験が物を言い、さほど時を置く事なく自身を取り戻す。
「ああ、そうだ。……俺は昔からずっとネッティを愛していたし、ネッティも俺を愛してくれていた。だけど俺は……いつだって、どこかで不安だったんだ。彼女は俺が救いの手を、逃げ道を与えたから、俺を愛し返そうとしてくれていたんじゃないかってな」
 自嘲に唇を歪め、無骨な手で顔を覆う。
「もちろん、俺にもわかっていた。あいつは俺をちゃんと愛していたって。それでもやっぱり疑念ってのはどうしても完全には消えないんだ。――俺の場合、嫉妬もあったしな。そうやって不安になるたびに俺はネッティに愛情をわかりやすい形で見せて、確認せずにはいられなかった」
 そうでもしなければ、感情は最悪な方向に走りかねなかった。それだけは何があっても絶対に回避したかったから、人に笑われようが、呆れられようが、愛情を見せ付ける事で全ての不安を塗りつぶした。そしてアネットも、自分の愛情を疑われまいと夫の不安には敏感に反応し、他の女性であれば引いてしまうほどの愛情を甘んじて享受し、等しく愛情を返した。周囲からすれば完璧な夫婦として見えていたようだが、その実情はどこか歪なものだった。
「だからお前には、そうなってほしくないんだ。……考えてごらん。今すぐにでなくとも、何年か経ってこの町で誰かと結婚して子供ができて、ある日ニュースで見るんだ。クライブとフォルトナー氏のお嬢さんの結婚式を。その時に今下そうとしている判断を後悔しないと、そのニュースを見るお前の横顔見るお前の夫に、欠片ほどの不安を抱かせる事はないと言い切れるのなら、ここに残ればいい」
 明らかな無理難題を突きつけられ、娘は父親に呆れ交じりの苦笑を向ける。
「もう、やだ。お父さんってば、そんな高いハードル、そう簡単に越えられるはずないじゃない」
「だったらボストンに、クライブの元に戻るんだな」
 あっさりと結論付ける父親をじっと見つめ、ジョージーナはそっと息を吐き出した。
「……戻っても、私は邪魔にしかならないもの。クライブはそうじゃないって言ってくれるかもしれない。だけどクライブの邪魔にならなくても……」
 その後に続くはずの言葉は、やはりジョージーナには辛すぎるようだった。
 それも当然だろう。彼女の世界が完全にひっくり返されたのはほんの数日前であり、その数分後には母親を永遠に失ったのだ。ただでさえアネットの事故を知って以来精神状態が不安定だったのに、あまりにも強すぎる衝撃が立て続けに訪れたせいで、常ならば正常に働くはずの思考回路が混線を起こしてしまっている。
 それが目に見えてわかるからこそ、ダニエルはこれまで出すまいとしていた助けの手を、ほんの少しだけ差し伸べてやる事にした。
「もし誰かにお前の存在が障害になると言われたのなら、その時は戻ってくればいい。きっとクライブも一緒についてくるだろうから、うちの事務所も安泰になるだろうしな」
「――ちょっと待ってよ。クライブは政治はやってるけど、法律は専門じゃないわよ?」
「だが、彼ほど優秀な青年なら、ロースクールだってすぐに卒業できるだろう。それに……いずれ孫ができれば、俺の老後も明るいものになるだろうさ」
「お父さん……」
 息を呑むジョージーナへと伸ばした手で、彼女が幼かった頃よくしていたように頭を撫でる。
「俺とネッティの夢だったんだ。この家の中で、お前の子供たちがころころと駆け回るのを見るのがな」
「だけどその子たちは……っ」
 言いかけた言葉を咄嗟に飲み込んだ娘の表情から、彼女が何を言いかけたのか、ダニエルにははっきりとわかった。
 アネットが死に際して告げた言葉の内容について語り合う事を、これまでジョージーナはずっと忌避していた。だが、いつまでも避けているわけにもいかない。特に、娘をボストンへ戻すつもりでいるからには、きちんと全てを話しておくべきだ。
 ゆっくりと息を吸い込み、ダニエルはなめらかな娘の頬に指を滑らせる。気まずく視線を向ける娘を真正面から見つめ、ふ、と笑みを浮かべる。
「馬鹿だな。まったく、お前もネッティも本当にわかってない。いいか? 俺はお前の事も、ネッティの事も心底愛してるんだ。――たとえお前が、俺の実の娘じゃなくてもな」