かぶ

Goodbye To You, My Love : Daniel - 03

 秋学期が始まるまでは戻らないかもしれないと言っていたアネットが突然に帰郷したのは、インターンシップの研修期間が終わった二週間後、八月半ばのうだるほどに暑い日の事だった。
 娘がいないのならばと、久しぶりに長い休暇をとった彼女の両親がフロリダへと旅行に出ていたため、帰郷の知らせを受けたダニエルは大喜びでで彼女をナッシュビル空港まで迎えに行った。本当なら、戻ってきた彼女の両親と一緒に、荷物運び兼運転手として出迎えに付き添う予定だったのだが、思いがけず二人きりになれるチャンスを得た彼は、実にわかりやすく喜んでいた。
 去年の秋にロースクールを卒業し、父親が営む法律事務所で助手として働きだしたからにはこの夏はなんとでも時間をやりくりしてアネットとの関係を少しでも前進させようと、そう目論んでいたのだ。けれどそんな不純な企みに気づいていたというわけでもないだろうが、幼馴染の少女は、青年を置いて都会へと飛び立ってしまった。
 ルイビルで学生をしていた頃はもっと長く離れていた事もあったのに、久しぶりに長い期間傍にいたせいか、日に一度はアネットと顔を合わせるのが、ダニエルにとっては当然のようになってしまっていた。
 アネットの両親が帰ってくるまであと一週間。父親を説き伏せて同じく一週間の休暇をもぎ取ったダニエルは、ボーリング・グリーンからナッシュビルに向かう間、二人きりで過ごせる夏の日々を思い、胸を躍らせていた。――到着ゲートで憔悴しきったアネットの姿を見るまでは。
 彼の姿を見るなりまるでしがみつくようにダニエルへと抱きついたアネットは、彼が言葉を発するより先に、ごめんなさいと呟いたきり、幼馴染の腕の中で静かに泣きはじめた。
 かわいらしい見た目や甘ったれた態度に反して、アネットは意外に気丈な少女だ。家族や親しい友人だけの場や、いわゆる感動物、悲劇物の映画などを見たとき以外で涙を見せるなど――それもこんな衆人環視の最中でなんて、ありえないはずだった。
 どうやら彼女がいち早く戻ってきたのは、単なるホームシックでも、ましてやダニエルが恋しくてなどという理由ではないらしいと、否が応にも理解せざるを得なかった。
 すぐにでも一体何があったのかと問いただしたくはあったが、こんな場所では落ち着いて話もできない。けれど車で数時間かかる自宅に戻るまで待つ事もできず、ダニエルはひとまずアネットを宥めると、彼女の荷物を取り上げて駐車場へと促した。
 そうして狭い車内で二人きりになった時、アネットが泣き腫らした声で小さく告げたのだ。
「ダニエル、私……妊娠、してるの」
 告げられた言葉の意味を理解するまで、たっぷり一分以上の時間がかかった。
「にん、しん……って、ネッティ、つまり君、子供、が……?」
 ようやく口にできた言葉は、同様のあまり情けないほどに震えていた。ダニエルの声にびくりと肩を怯えさせ、アネットが小さく頷く。
「怖かったけど、病院にも行って確かめたわ。まだ二ヶ月に入ったばかりだけど確実ですって。それで私、どうしようもなくて――もう、帰ってくる事しか、考えられなくて……」
「アネット、ネッティ、落ち着くんだ。俺はここにいるし、いつだって君の味方だ。まずは落ち着いて、それからもう一度、初めから話してほしい」
 抱きしめる腕に力を込めながら囁くダニエルは、静かに胸の中で偽善者めと己を罵っていた。
 彼の胸の中では、醜くどす黒い嫉妬が蛇のようにとぐろを巻いて蠢いている。ずっと恋してきた少女に妊娠させた挙句一人で逃げるようにして帰郷させた男に対して、その男が目の前にいさえすれば、問答無用で殴り殺してやりたいくらいの憎悪すら抱いている。
 同時に、出発前夜には一線を越えこそはしなかったものの、恋人以外には許さないだろう近さまで近づかせておきながら自分以外の男に身を任せたアネットに対して、なぜなのかと、どういうつもりなのだと問いただしてやりたい衝動が堰を破らんとしている。自分の気持ちを知りながらよくもそんな事ができたなと責める気持ちが理性を焼き尽くしそうな男が、いわば自分を裏切った恋人に対して味方だなど、よく口にできたものだ。
 だけど、どうして突き放せるだろう。都会でできた恋人ではなく、故郷に残した幼馴染である自分しか、それこそ裏切った当の本人にしか頼れないのだと身も世もなく嘆く少女を、どうして責められるだろう。その権利を、ダニエルはきっと持っている。けれどこの状況ではその権利を行使するなどできるはずもない。彼にできるのは当然の権利を放棄した上で、甘んじて求められている役目を演じる事、それだけだ。
「ネッティ……ネッティ、安心していい。大丈夫だ。俺がついてるから」
 限りなく優しく繰り返し囁きを落としたのが功を奏したのだろう。ようやく啜り泣きを収めて顔を上げたアネットは、涙に濡れてぐちゃぐちゃの顔をしていたけれど、ダニエルの記憶に残る幼い頃の彼女を思い出させてくれた。
「……ごめんなさい、ダニエル。本当に、私……」
「今は謝らないでいい。事情がわからなければ、怒る事もできないだろう? だからまずは、何があったのか教えてほしい」
 掠れた声で謝罪を口にするアネットの顔を指先で拭いながら、努めて冷静に言葉を繰る。またくしゃりと泣きそうに顔を歪ませながらも、彼女はこくんと一つ頷いて、時折しゃくりあげながらとつとつと話し始めた。
「向こうに着いてからの一週間は、私、都会に出られた嬉しさで一杯だったし、新しい環境に慣れるのに精一杯だったから、寂しいとも何も思わなかったわ。だけど都会の生活に慣れるにつれて、親しい人が誰もいない状況がすごく不安になったの。もちろん、一緒にインターンシップをしている学生もたくさんいたし、私にお仕事を教えてくれた方はとても親身になってくれてたわ。私、電話では強がってたけど、それでもやっぱり、少しホームシックにかかってしまったの」
 田舎出身の子にはよくある事だと上司は慰めてくれたのだと、アネットは照れたような笑みを浮かべる。
 初めて都会に、社会に出たばかりの雛鳥は容易くホームシックにも陥るし、大学では要領よく動けていたはずが会社という枠組みの中では上手く動けず自信喪失に陥る事も少なくない。特に、新聞社の政治部などという特殊な環境にあっては、講義で学んだ程度の知識など机上の空論扱いされて終わりだ。
 だからこそ、そんな研修生たちを景気づけるために、彼女の研修先である新聞社では、研修一週間目が終わったあたりでちょっとしたパーティを開く事が慣例となっていた。
 そのパーティは、基本的には職場のメンバーとの懇親だが、地元に住む人たちと知り合う事で行動範囲を広げてやろうという親心もあり、同僚たちはこぞって自分たちの友人を招いてもいた。
 その中に、その男がいたのだ。
「私の指導員だったケヴィンの学生時代からの友人だと、彼――ジョージに、紹介されたの。馬鹿みたいって笑われるかもしれないけど、ロマンス小説を読んで夢想していた理想の相手が、目の前に現れたのかと思ったわ。実際、彼はそんな理想どおりに振舞ってた。ちょっとしたプレゼントを贈ってくれたり、甘い言葉を囁きかけたり、毎日のように色々なところに連れて行ってくれて……それも、まるで私がお姫様か何かのようにすごく丁寧なエスコートで。出会ってから十日も経たない内に、私、ジョージに恋してた」
 蒼褪めた頬に僅かな笑みと赤みが宿るのを見て、ダニエルがぎり、と、無意識に奥歯を噛み締める。それに気づいていないのか、アネットは全てを吐き出すかのように言葉を続ける。
「きっと私、どうしようもなく寂しかったのね。それに……不安で自信もなかったから、それを埋めてくれた彼に、余計に惹かれたんだと思う」
 相槌を返そうとして引っ掛かりを覚えたダニエルは、ほとんど反射的に訊ねていた。
「自信って……仕事の事ではなくて?」
「……仕事も、そうだけど、それよりも……」
 次の言葉に迷ったアネットは、しかし強く目を閉ざし、苦しげに告げた。
「女性として、魅力がないんじゃないかって、思ってたの」
「まさか! どうしてそんな……」
「だって貴方、あの日、私を抱いてくれなかったじゃない! だから私――」
 とっさの反論へと切り付けるように返された反駁は、ダニエルの有罪をはっきりと告げていた。