かぶ

Goodbye To You, My Love : Daniel - 04

 一気に蒼褪める幼馴染の変化に気づき、アネットは自らの失言を悟った。さっきとはまた違った怯えを滲ませて、彼女は言い募る。
「違うの! そうじゃないのよ、ダニエル。悪いのは私なの。貴方が私を想って身を引いてくれたなんて事、ちゃんと知ってたわ!」
「だけど君は傷ついてた。そうだろう?」
 浮かべた笑みは、自分でもわかるくらいはっきり歪んでいた。アネットの瞳に悲痛さが翳を落とすが、今の彼にはどうしようもなかった。
「考えてみれば俺は、言葉さえもやってなかったよな。君はわかってくれているからなんて思って、きちんと踏むべきだった手順をすっ飛ばしてた。だって、そうだろう? デートやプレゼントはきちんとしていたけれど、気持ちを言葉にしては伝えてなかった」
「ダニエル……」
「そんな俺の傲慢さが、君を不安にさせたんだ。だったら、責任の一端は俺にもある」
 先程よりは幾分ましな笑みを浮かべ、ダニエルは先を促した。まだ何か言いたげだったアネットは、しかし付き合いの長さゆえ、今のダニエルに何を言っても通じないだろうと判断し、ため息混じりに説明を再開した。
「とにかく、彼は私にとって憧れの具現だったの。だけど彼にとって私は……」
 言葉の選択に迷うアネットがまだ腫れぼったい目を彷徨わせる。その様子からも続く言葉は容易く知れ、ダニエルは遮ろうと口を開く。けれど彼が何事かを言葉にするよりも、彼女が諦め交じりの息を吐く方が早かった。
「……そうね、ごまかしても仕方ないわ。ええ、そうよ。私は彼にとって、あくまで可愛い女の子だったの。つれまわすにはちょうどいいお人形さん」
「ネッティ……」
「これは本当の事よ。夢から醒めたおかげで、ちゃんと物事が見えるようになったの。だからダニエル。私のためにそんな辛そうな顔をしないで」
 穏やかに微笑んで頬に触れてくるアネットを見れば、確かについ先程までは彼女を濃く覆っていた悲壮感は薄れ、その目は現実をはっきりと見据えているように思える。
「何よりね、ダン。彼はいわゆる上流階級の人なの。ジョージもケヴィンも明言する事はなかったけれど、着ていた服や持ち物、それに行動範囲などからして、彼らは二人とも、かなりいい家の生まれなんだと思う」
「――ちょっと待ってくれ、アネット。まさか君たちは、そういった基本的な事柄を話し合ったりもしなかったのか?」
 信じられないな、と、正直な気持ちが言葉となって零れ落ちる。それを聞いて、アネット自身も驚いた顔になった。しばらくの間、自分の言葉に瞠目していたが、諦め交じりの息を一つ吐き出すと、静かに首を振った。
「――ええ、そうね。私は家の事だとか、故郷の友達の事をたくさん話していたけれど、彼が自分自身について話してくれた事はほとんどなかったわ。……ああ、もう、本当に馬鹿みたい。結局私って、本当に都合のいい存在だったんだわ」
 自嘲の言葉を吐き出したアネットは、まるでダニエルの視線から逃れたいとでも言うように背を向ける。その細い肩が震えるのを目にしても、抱き寄せるべきか、そっとしておくべきなのか、咄嗟には判断がつかなかった。
 それでも悩んだのはほんの数秒だけだった。
 たとえ他の男のためとはいえ、恋しい少女を一人で泣かせるわけにはいかない。同じ泣くのならば、自分の腕の中で泣けばいい。そしていつかまた、自分の腕の中で笑ってくれる日が来るのなら、それでいい。
 彼女が誰とどんな過ちを犯そうと、ダニエルがアネットを突き放す事などできるはずがなかったのだ。
「アネット」
 自分に出しうる最大限に優しい声で呼びかける。ひくりと肩を震わせる事で彼の声が聞こえたと伝えてきたアネットに、ダニエルは言葉を続けた。
「一つだけ、答えてほしい。――いや、正しくは二つ、かな」
「……何?」
「君は……妊娠している事を、その子の父親に教えるつもりはあるのか?」
 ひくっ、と、しゃっくりにしても奇妙な音が聞こえた。どうやらおかしな質問をしてしまったらしいと考えつつも答えを待っていると、呆れたような溜息が届いた。
「もちろん、ないわ。さっき言ったでしょう。あの人にとって私は将来を真剣に考えるような相手ではなかったんだって」
「だけど彼は父親だ。知らされるべきだと思わないか?」
「知らせて、どうなるの? 責任を取るためになんて理由で結婚してもらうの? それとも、もっと酷い結論を出させるの?」
「……ああ、つまり君は、子供を堕胎するつもりはないんだな」
 無意識に出た安堵の呟きに、アネットがとうとう激昂する。
「当たり前だわ! この子は、確かに思いがけずできてしまった子だけれど、確かにここにいるのよ!? きっとパパやママにはすごく怒られるだろうし、近所の人たちにはあまりいい顔をされないだろうけど、だからってそんな――そんなこと、できるはずないわ!」
「すまない、アネット。俺が悪かった。言葉を選び間違えた。そういうつもりじゃなかったんだ。だから頼む。赤ん坊のためにも落ち着いてくれ」
 激しく抗う少女を強引に抱きしめ、耳元で辛抱強く囁く。そうしてようやく落ち着いたアネットを腕の中に閉じ込めたまま、彼はもう一つの問いかけを口にした。
「これもまた怒られそうだけど、大切な事なんだ。よく考えて、答えてほしい。――君は、産んだ子供を養子に出すつもりか? それとも、自分で育てるのか?」
 情熱が行き過ぎた結果、双方共に望まぬ妊娠を引き起こすカップルは、学生をしていればそれなりに見る。ダニエルも学生時代にそんな状況に陥った者を何人も見知っているし、その結末についても噂に聞いていた。選べる道など大してない。大抵は責任を取って結婚するか、出産して母親一人で育てるか、父親が引き取るか、出産後に養子に出すか、堕胎するかのいずれかの選択肢が大抵問われる。
 もしもここでアネットが、子供を手放す道を――いかなる方法であれ取るというのであれば、ダニエルにできる事はほとんどない。だがもし、彼女が手元で育てるというのであれば……
「……手放すなんて、できないわ。だってこの子は、私の子なんだもの」
「父親の事はどう話すんだ? 君のご両親にも、この子にも」
「なんとでも言うわ。事故で死んだとか、兵役でどこかに行ってしまったとか」
「つまり、本当の事を言うつもりもない?」
「当たり前でしょう? そんなの、妊娠した事を伝えるだけでも両親はきっとショックを受けるのに、都会の男性に弄ばれましたなんて言ったら、きっと二人揃って心臓発作を起こしてしまうわ」
 ジョークめかした言葉は、しかし真実でもあった。
 大学内での妊娠騒動であればまだ許容される。何しろ相手は同じ町に住んでいるのだから、両親の権限で責任を取らせる事も、土下座をさせる事も、気が済むまでぶん殴る事も、銃を持ち出して追い掛け回す事もできるのだ。
 だがこれが遠く離れた都会で起きた事となれば、それも上流社会に属する人間によって成された事となれば、話は別だ。財力も社会的地位もはるかに及ばない彼らが何を言っても、まともに取り合ってはもらえまい。下手を打てば、金か、妻の地位を狙って妊娠したのだろうと決め付けられるかもしれない。アネットを妊娠させた本人が彼女の存在を否定し、法曹界に手を回してしまえば、名誉毀損で逆に訴えられる可能性だってある。そんな事にならなかったとしても、子供を奪われる可能性だって少なくないし、奇跡が起きて正しく責任を取ってくれるとなった場合でも、アネットが社交界にそう簡単に馴染めるとも思えない。
 結局のところ、物事を無駄にややこしくしないためには、どんな不評を浴びようと、アネットが口を噤むのが一番なのだ。
 ――ただしそれは、彼女が一人で全ての責を負うのであればの話だ。
「……いや、そうはならないよ。なるわけがない」
「なるに決まってるわ! もう、ダン、あなたは私の両親をよく知ってるでしょう? 典型的な田舎のおじさんとおばさんなんだもの。こんなショッキングな事を娘から聞かされて平気でいられるはずないじゃない」
「そりゃあ、怒られるだろうな。結婚前の娘になんて事をしたんだって」
「怒る怒らないじゃないでしょう? 大体あなた――」
 反論を重ねようとして、違和感に口を閉じる。難しい顔をして視線を鋭くあちこちに走らせる様子を見れば、ダニエルがほんの数秒前口にした言葉を頭の中で再生しているのがはっきりとわかった。
「――ちょっとダニエル。どうしてあなたが怒られるなんて話になるの?」
「簡単な話だよ、ネッティ。俺がその子の父親として名乗り出る。その上で、きちんと責任を取らせてもらう」
 もちろん君が嫌でなければの話だけれど。
 そう付け足して微笑んだダニエルを、アネットは呼吸すらも忘れ、ただ呆然と見つめ返した。