かぶ

Goodbye To You, My Love : Daniel - 05

「お前の本当の父親と別れて戻ってきたネッティにプロポーズをしたのは、彼女を手に入れたかったからだけじゃない。何が何でも、彼女と、彼女の胎の中にいる子供の両方が欲しかったんだ」
「子供って……私の事、も?」
「ああ」
 戸惑いの視線を向ける娘に、ダニエルはきっぱりと頷く。しかしそれだけでは納得がいかないのだろう。疑わしげに見つめられ、苦笑を漏らした。
「そんな目で見ないでくれ。俺は本当の事だけを口にしてるんだ。今、嘘を吐けば、俺はお前の信頼を失ってしまう。それがわかっているのに、どうして偽りを告げるんだ?」
「それは……確かにそうだけど、でも、わからないわ。だって私は、父さんの子供じゃなかったのよ?」
「だが、アネットの子だ」
 予想のできた問いかけに、間髪いれず言葉を返す。あまりにも迷いのないその響きに驚いて、ジョージーナが目をぱちくりとさせる。
 娘のそんな表情は、予想以上にダニエルの心を深く穿った。
「ったく、そんな顔をするんじゃない。……なあ、ジーナ。俺は、血の繋がりがないというたったそれだけの事で、お前への愛情を疑われなければならないような父親だったか? これっぽっちの事で、これまでに築いてきた絆は揺らいでしまうのか? この二十年以上の年月は、なかった事になってしまうのか?」
「あ……」
 切なく響く父親の声に、娘は自分がどれだけ彼を傷つけていたのか、今になって気づいたらしい。先程までとは違った意味で驚愕を浮かべるジョージーナに、ダニエルはほんの少し目を伏せる。
 二人の関係が変わってしまうのではないかと恐れていたのは彼女だけではない。きっと彼女以上に、彼の方が恐れていた。これまでに作り上げてきた『家族』という名の絆に縋りつきたいと願っているのは、ダニエルの方なのだ。
 ごめんなさいと小さく漏らされた言葉が耳に届くのと、柔らかな腕が遠慮がちにダニエルを包むのはほぼ同時だった。
 愛しい熱に、ほっと息を吐き出す。その存在を確かめるように抱きしめ返し、彼は必死で涙を堪えようとしている娘に優しく囁く。
「泣くんじゃない。泣かなくていいんだ。お前が不安になるのもわからないではないからな。母さんだってそうだった。だけど信じて欲しい。俺は本当に、心底から、真実、お前を望んでいたんだ。お前を産み、俺の娘にしてくれた事で、ネッティへの愛情は深さを増した。お前が俺をお父さんと呼んでくれた事で、俺はこの世で最も幸せな男の一人になれた。お前の存在が、家族ってのは、血だけで作られるんじゃないと、愛情が作り上げるものなんだと教えてくれた。お前がいたから、俺は父親になれた……」
「……お、父、さん……?」
 戸惑いに身を引いた娘を至近距離から見つめ、二十五年前にもアネットに告げた言葉を口にする。
 それは以前に口にした時と同じくらい――否、それ以上に、ダニエルにとって困難な事でもあった。
「俺は大学生の時、酷い風邪にかかって肺炎まで行ったんだ。一週間近く、意識不明でうなされつづけたくらいで、一時は命も危ぶまれた。幸い、こうして生きてるし、今じゃ完全な健康体なんだが……」
 吐き出しそうになった溜息の変わりに、深く息を吸い込む。そのまま強く目を閉じて、いまだにしぶとく残っていたプライドの残骸を自ら打ち壊した。
「……どんなに願っても、子供を作れない身体になった」
 驚きのあまり声も出せずにいる娘から視線を外し、極力感情を抑えて続ける。
「なんだかんだと言っても、俺は古風な人間でな。言い訳がましく聞こえるかもしれないが、これがネッティを一度手放してしまった原因なんだ。……あの頃の俺にとって、子供を作れないってのは、男としての自分を否定されたとほぼ同義だったんだ。それに何より、あのままネッティと一緒になっていれば、俺は彼女から母親になるという未来を奪う事になっていた。そんな迷いがあったせいで、俺は彼女を不安にさせた。他の男に付け入る隙を与えさせた」
「その事、母さんは知っていたの? その、私ができた後の事だけど……」
 どこか言いにくそうなジョージーナに、ダニエルはあっさりと頷く。それからほんの少し表情を和らげると、触り心地のいい娘の髪を梳きながら、今となっては懐かしい日々を振り返った。
「正直に言うと、この事を白状したおかげで、ネッティは俺との結婚を受け入れてくれたんだ。彼女の両親が旅行から帰ってくるまでの一週間を、俺は彼女を説得するのに費やした。もう、それこそ男としての矜持もプライドもかなぐり捨てて、ほとんど拝み倒す毎日だったよ。なにしろあいつはなんだかんだ言っても南部の女だったからな」
「南部の女?」
「ああ。ロマンチストなくせに、いざ腹を決めるとどこまでも現実的になって、自分自身の足で立って歩いていくんだ。情けない男なんか道端に放置してな。――多分あの時に俺が押し切ってなければ、あいつはお前を見事に一人で育て上げていたはずだ。そしてその様子を、俺は今も、指を咥えて眺めていただろう」
 あまりにも身も蓋もない父親のコメントに、改めて彼の膝に懐いていた娘が複雑な表情を浮かべる。
「う、ううーん、それはどうかなぁ……。お父さんの事だから、いずれは継父になるとしても、母さんと結婚してたと思うけど」
「だけど、相手はアネットだぞ? 母さんはああ見えて、かなり頑固で強かだった。自分に恋していた相手を裏切ったのだから、戻るわけには行かないという鉄の信念を持ってしまえば、俺がどんなに努力しても、一生幼馴染の枠から外れられなくなっていたに決まってる。で、俺はそれが嫌だったから、女々しく泣きついて、土下座して、すがり付いて結婚を迫ったんだ」
「……なんていうかそれ、すっごく見てみたかったかも……」
「やめてくれ。さすがにお前にそんな情けない姿は見られたくない」
 興味津々の体で見上げてくるジョージーナに、ダニエルが疲れた顔になる。お父さんってば、と明るく笑う娘は、やはり自分にもアネットにも似たところはない。ただその笑顔の形が、アネットを思わせる。それだけで、ダニエルには彼女を実の娘として愛するには十分すぎるほどの理由だった。
「アネットは、婚約当初はやっぱり俺に遠慮ばかりしていた。それは休みが終わる直前に急いで結婚式を挙げてからでも大して変わらなかった。だけど俺が彼女を慈しみ、日に日に大きくなるお前が生まれるのをどれだけ楽しみにしているのかを知るにつれて、素直に愛情を見せてくれるようになった。彼女から愛してるの言葉をもらったのは、生まれたばかりのお前を抱いて、嬉しさと愛しさと感動のあまりに泣いてしまった時だ」
「お父さん……」
 髪を梳いていた手で、鋭利な線を描く頬を包み込む。すっかり大人の女性に成長してしまったが、ダニエルの目には、今でもまだ小さな可愛らしい娘にしか写らない。
「実際に命を腹の中で育む母親と違って、男親ってのはいつまでも実感が持てないものなんだ。俺は、血縁上では確かに父親じゃないかもしれないが、心の中では父親のつもりだった。だけどな、大きな声を上げて、真っ赤なくしゃくしゃの顔で泣くお前を渡された時、はっきりと感じたんだ。ああ、この子が俺の子なんだ。他の誰でもなく、俺に与えられた子供なんだってな。アネットが俺のために産んでくれた、俺たちの娘なんだって」
 くしゃりと、娘の顔が泣き顔に崩れる。そっと腕を差し伸べると、幼かった頃と同じように、ほんの少しもためらわず飛び込んできた。さっきの遠慮がちな抱擁とは違って全身を預けてくるようなそれに、ダニエルは心からの安堵を覚える。危うく失いかけた娘を手放さずにすんだ。その実感が、彼の身体をたとえようもなく熱くした。
 こんな風にジョージーナが自分の腕の中で泣いたのは一体どれくらいぶりだろうか。嗚咽を収めつつある娘の背を撫でながら、ダニエルは考える。アネットが逝ってしまってからは、娘よりも自分の方が情けない事になっていたせいで、ぼんやりと霞んでいる記憶のどこにも彼女が涙を零していた場面は残っていない。
 ダニエルとアネットの『小さなジーナ』はすっかり成長してしまったのだと頭ではわかっていたはずだが、やはり彼の目には幼い少女のようにしか映っていなかったらしい。今更に膝の上に感じる重さや慟哭を宥めるために回した腕の感覚を現実として認識し、一体いつの間にこんなに大きくなったのだろうかと頭の片隅で考え込んでしまう。
 鼻を啜りながら嗚咽を収めたジョージーナの顔は、やはり幼い頃の泣き顔とあまり変わらない。違いはといえば、どうしようもなく可愛らしかったのが、親の贔屓目を差し引いても美人になっているというだけだ。