かぶ

Goodbye To You, My Love : Daniel - 06

「……もう、やだな。こんな、子供みたいな真似、したくなかったのに」
「馬鹿だな。お前は今も昔も、これからだって、俺の子供だろうが。たとえお前に子供がいたとしても、俺にとっては、いつだって『小さな可愛いジーナ』なんだ」
「ええー、私、もう全然小さくなんかないわよ?」
 泣いたせいだけでなく赤く染まった頬から涙の跡を拭いながら、娘は恥ずかしげに唇を尖らせる。その額にそっとキスを落とした父親は、穏やかながらもきっぱりと告げる。
「身体の大きさなんか関係ない。いずれお前もわかるさ」
「私、お父さんよりもっと物分りがいいもの。子供が成長したら、ちゃんと大人として扱うわ」
「さて、どうだろうな」
 頑固に告げる娘に笑いを含めた声で返すと、むう、と唇を尖らせる。そう怒るなと囁いて頭を抱き寄せれば、素直に身を任せながら怒ってなんかないもん、と子供っぽい反論が返ってきた。そのまましばらく互いの心音だけに耳を澄ませるような心地よい沈黙に浸る。
「……ね、もう一つ、訊いていい?」
「ん? 何だ?」
「私の名前……ジョージーナって、誰がつけたの?」
 実の父親の名を知ったからにはいずれこの質問が来るだろうと覚悟をしていたダニエルと違い、緊張しているのか、ジョージーナはほんの少し身体を硬くさせている。その背中を撫でながら何事でもないように答えた。
「昔にも教えただろう。俺だよ」
「本当に?」
 身を起こし、真正面から見つめてくるアイスブルーの双眸をまっすぐに見返し、ダニエルははっきりと頷く。
「ああ。俺がつけた」
「だけどこの名前、ジョージーナって……」
「そうだ。お前の想像どおり、本当の父親から取った。ネッティは、その名前に、かなり真剣に反対してきたよ」
「でも……どうして?」
 戸惑うその顔は、やはりアネットがダニエルから娘にジョージーナと名づけようと思うと聞かされた時の表情にそっくりだ。まったく、なぜ彼女らはこうも不意打ちで彼の心を騒がせるのだろう。
「お前と同じ質問をあいつもしてきたよ。だから、同じ答えを返そうか」
 娘の柔らかな手触りの髪をくしゃりとかき回し、彼は静かな声で、問いかけに対する答えを伝える。
「お前にジョージーナと名付けたのは、俺の決意を示すためだ。そいつは知らなかったとはいえ、むざむざとお前を手放したんだ。だからお前は俺の娘だ。他に父親なんかいないし、いらない。お前の父親であるという幸運も、経験も、成長過程を見守る権利も、お前をくれといいに来る男と対決する権利も、バージンロードを一緒に歩く特権も、全て俺が独占する。奴がお前と分け合えるのは、遺伝子と名前だけ。――これが、俺に出来る最大の譲歩だった。お前も知ってるだろう。俺はこの上なく独占欲が強いんだ」
 迷いなく言い切ったダニエルを、ジョージーナが驚いた顔で見つめてくる。しばらくの間ぽかんとしていた娘は、しかし程なく満面に笑みを浮かべた。
「じゃあ私、この名前を誇りに思っていいんだ。お父さんが私を想って付けてくれた大切な名前なんだって、胸を張ってもいいんだ」
「ああ、誇ってくれ。お前は俺の娘だって世界中に宣言するために付けた名前なんだからな」
「そこまで言うの!?」
「言うさ。実際、それくらいの心意気で付けたんだ。俺はネッティにはどうにも弱い男だけど、これだけはあいつにどんなに反対されても、宥められても、縋られても、泣き落としをしかけられても変えなかったんだからな。最後には呆れ果てた末に諦めの境地に至ったらしい。多分、人生で唯一、俺があいつに譲らなかったものじゃないかな」
 両親の間にどんな攻防があったのか、今の言葉でありありと想像できたのだろう。心底から呆れた顔になって、その元となった娘はやれやれと首を振る。
「どうせならそんなところじゃなくて、もっと違うところで打ち勝とうよ……」
「そんなところじゃないぞ。俺にとってはこれ以上になく重要な事だったんだからな」
 これっぽっちも悪びれず告げるダニエルへと、ジョージーナはあっさり白旗を揚げる。
「確かにそうね。お父さんにとって、私はたった一人の、大切な宝物なんだもんね」
「ああ。――だからこそ、何が何でも幸せになってほしいんだ」
 その言葉の意味するところを正しく理解し、ジョージーナがまた、苦しげな顔になる。けれどダニエルはあえて気づかぬ振りをして、言葉を続けた。
「お前が俺の言葉に逆らってここに残ったとしても、きっとクライブはお前を迎えに来るよ。話し合いの結果次第では、一人でボストンに戻るかもしれない。だけど俺の考えが正しければ、お前を伴って戻るか、お前と揃ってここに残るか、もしくはまったく別の新しい土地に二人で出て行くかの選択をする事になるだろうな」
「……どうしてお父さんの方が、私よりもクライブの想いの強さに自信あるんだろう……」
 心底からわからないと首を振る娘に、父親が笑いを漏らす。
「そりゃあお前。俺は彼と同じ男だし、お前を深く想う同士でもあるんだ。何より当事者じゃないからな。目を曇らせる事もなく、想いの行方を見据える事もできる。――まあ、万が一にもお前を取り戻そうとしないフヌケだったりするのなら、爺さんから譲り受けた散弾銃を持ってボストンに乗り込んでやるから安心しろ」
「もう、お父さんったら! そんなの全然安心できないじゃない。わかったわかった、なら私は、お父さんがクライブを撃ちに行かずにすむように、彼が一日でも早く、私を迎えに来てくれる事を祈っておくわ」
 諦めの言葉を口にしながらも、ジョージーナの顔は明るい。その目を覗き込めば、彼女がまだ心の深くでは懊悩の陰が残っているのが感じられたものの、彼女を苦しめていた迷いや悩みの大部分は晴れたようだ。
 穏やかな安堵が胸に広がるのを感じながら、ダニエルはようやく涙の乾いた頬をそっと撫でた。
「――お前が自分から向こうに戻るって選択肢もあるんだぞ?」
「……その選択肢を選ぶよりも、きっとクライブが痺れを切らす方が早いわ」
 まるで恋人の訪れを予期しているような物言いだが、その陰に潜んでいるのは、自ら戻ろうと思えるまでには長い時間が必要になるという消極的な意思だ。
 相手へは確かな愛情を抱きながらも相手から返される愛情に自信が持てないのは、もしかすると自分たち夫婦の関係が影響を及ぼしているのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎり、ダニエルは内心で嘆息する。クライブがジョージーナを迎えに来た暁には謝っておこうと密かに決めて、すっかりいつもの調子を取り戻している娘を膝から下ろす。
「もうそろそろ日が変わる。明日は早起きする必要はないが、そろそろ寝た方がいい」
「ええ、そうね」
 素直に頷いたジョージーナは、指を組むとゆっくりと伸びをする。不自然な体勢でいたために、身体が固くなってしまっていたのだろう。あちこちを伸ばすように軽くストレッチをした後、ふと父親を振り返るといたずらっ子の笑みを浮かべる。
「私、重くなったでしょう? 本当はさっきからずっと私の事、放り出したかったんじゃない?」
「そんなわけあるか。たとえお前の体重が二〇〇ポンドを超えていたとしても、お前が甘えてくるならいくらでも膝に乗せて抱っこしてやるさ。安心しろ。それでもまだ、ピザ屋のマッテオより一〇〇ポンドは軽い」
「よりにもよって、比較対象がそれ? いくらなんでも酷くない?」
 不満げに唇を尖らせる娘へ、父親がニヤリと笑い返す。
「酷くない酷くない。よく言うだろう。物事は何でも最悪を想定しておけば、大抵の出来事はマシに思えるって」
「――ちょっと。それってやっぱり、重たかったって意味じゃないの、お父さん!」
「しまった。口が滑っちまった」
 わざとらしく口元を押さえるダニエルへと、実に可愛らしくにっこりと微笑んだジョージーナが、固く握った拳を振り上げる。
「お・と・う・さ・ん? 何か今、聞き捨てならない事、言わなかった?」
「いやいや、何も言ってない。何も言っていないよ、マイ・スイートハート。もちろん、お前は天使の羽根よりも尊く、綺麗で、軽いに決まってる。指先で持ち上げる事だってできるさ」
「言葉にこれっぽっちも心情が篭ってない!」
 アクアブルーの瞳を凍てつかせてぽかぽかと殴りかかってくる娘にあっさりと降参の白旗を掲げる。こんな子供じみたやりとりは、ジョージーナがボストンに行ってからはめっきりなくなっていた。彼女が自分の出生について知ってしまったからには、もう二度と望めないかもしれないと思っていた。
 アネットが穏やかに息を引き取った時、ダニエルは生きていく理由を失ったと思った。彼女の鼓動が虚空に消えると共に、己の心臓も動きを止めてしまうだろうと。
 けれどまだここに、アネットの欠片が残っている。彼女が彼に与えてくれた、何よりの宝物がある。今はジョージーナだけだが、そう遠くない未来には祝福の日がやってくる。そうしていつか、小さな宝石たちがこの世に生まれる日もくるはずだ。
 その日が来るまでは、行けない。どんなに妻が恋しくとも、愛する女性の不在に心が、身が千切られそうなほどに辛くとも、この目で娘の幸せを見届け、その結晶を抱き上げるまでは、追いかけていくわけにはいかない。
 その日がいつ来るのかはわからない。けれどいつか、アネットが迎えに来てくれるその日まで、ダニエルは精一杯生きて、再会した暁には、何年かけても語りきれない程の幸せな思い出を作っておかなければならない。
「――愛してるよ、ジーナ。俺の愛するお嬢ちゃん」
 拳を握った手首を捕まえて、心からの愛情を伝える。唐突な言葉に驚いた彼女は、しかし次の瞬間ふわりと花が綻ぶように微笑んで、ただ一人の父親を抱きしめる。
「私もよ、お父さん。ずっとずっと愛してる」
 だからこれは、それまでの“短い”お別れだ。いつかまた、今度は天の国で二人が一緒になれるまで、その日が来るまでの、さようなら、だ。