かぶ

Goodbye To You, My Love : Eleonole - 02

 後になって知ったのだが、アレクサンダー――アレックスが自分の所在をそれとなくとはいえ知らせた相手は、片手に余る程度しかおらず、その中でもエレオノールには比較的早い段階で知らされた一人だった。
 そんな事を当時のエレオノールには知る由もなかった。けれど果てしなく遠まわしな方法ではあったけれども己の所在を伝えてくれた、その事実がエレオノールに泣きたくなる程の幸せな気持ちを与えてくれた。
 つまり彼は、ちゃんとわかっていたのだ。彼の存在が彼女にとって、どれだけ大きなものなのかを。行方を眩ませたままでは、どれほど彼女が不安や心痛に苛まれるのかを。
 すぐにでも再会を果たしたかった。けれど彼女はまだ高校に進学したばかりで、自由にできる金銭は大してなかったし、親の監視が厳しかった。アレックスが契約していると思しい出版社が所在するシカゴに親戚がいないわけでもなかったが、あまり親しいわけではなく、口実にもできない。
 何よりまだ、アレックスの生家は彼を諦めてはいなかった。彼らが四方八方に探査の手を伸ばしている事を、エレオノールは知っていた。
 彼を匿っている人間が余程巧妙なのか、それとも彼自身が巧みなのか、こうして名前を出して仕事をし始めたというのにいまだ見出されていないのが不思議なほどだったが、自分が彼の所在を掴まれる原因となる事だけはなんとしても避けたかった。
 そうしてエレオノールの元にアレックスの写真が掲載された雑誌や新聞記事が時折届くようになって二年が過ぎた頃、ニューヨークで開かれたチャリティのための写真展にて、二人は再会を果たしたのだ。
 展覧会にてその姿を見た時は、一瞬息が止まるかと思った。アレックスもすぐにエレオノールに気づいたものの、周囲には友人や招待客がひしめいていて身動きが取れないようだった。パーティの時に、と口の動きで伝えてきた彼にそっと頷いて、エレオノールはひとまずその場では踵を返した。
 もともと軍人となるために身体を鍛えていたアレックスだが、過酷な労働や環境によって外見的にも内面的にも鋭さを増していた。身に纏うスーツは以前に着ていたものからすると格段に質の落ちたものであったが、難なく着こなしているのがいっそ憎い。
 長く待った末の数時間がどれほど狂おしいものかを、エレオノールはこの日、初めて知った。ようやく展覧会が終わり、会食へと移行した時には、すでに緊張が高まりすぎて頭痛すら覚えていた。あともう少し、あとほんの少しで彼と話せるのだと繰り返し自分に言い聞かせ、物心ついた頃から培ってきたポーカーフェースでもって内心を隠し通した。
 退屈な挨拶やスピーチが終わって程なく、アレックスからの合図を受けて会場を抜け出したエレオノールはいざなわれるままにアレックスの部屋へと赴いた。
 二人きりになって向き合うと、無事でいてくれたという安堵やようやく会えた喜び、突然いなくなった事に対する怒りや不安などといったありとあらゆる感情の奔流に呑まれ、エレオノールは言葉を発する事もできず、引き寄せられるままにアレックスの膝に乗り、彼にしがみついて涙をこぼすしかできなかった。せっかくの一張羅が涙やしわで駄目になるかもしれないというのに、彼は何も言わず少女の身体を優しく抱きしめ、時折髪にキスを落としながらも暖かな大きな手でその背中を撫で続けてくれた。
「心配をかけてすまなかった」
 エレオノールが落ち着くのを待って掛けられたその言葉に、思わずひっぱたきたくなる。それをぎりぎりで抑えた彼女は、泣きすぎて枯れてしまった声で本当にね、とだけ返した。
「突然、何の相談もなくいなくなってしまうんだもの。とてもショックだったわ。私はあなたに信頼されてると思っていたのに、全然そうじゃなかったって思い知らされたんだもの」
「エレン……」
「それに、それに半年以上も所在も安否も知らせてくれないなんて。酷いじゃない。一時は心配が過ぎて、食事も喉を通らなかったほどなのよ? 無事でいるとわかってからも、あなたに迷惑掛けちゃ駄目だって思って、会いにくるのも我慢した。なのに、第一声がそれ? 私があなたの心配をするのは当然だわ! それを、あなたははじめからわかっていたはずよ」
 ふつふつと沸いてくる怒りのままに、以前より薄くなった胸を拳で何度も叩く。その手を止める気配すら見せないアレックスはエレオノールを穏やかに見つめるばかり。エレオノールがこんな風に感情をあらわにする事はめったにないのだ。否、いっそ生まれて初めてかもしれない。なのにどうして彼はこうも冷静なのだろう。まるで自分ばかりが馬鹿を見ているような気分になって、エレオノールは最後に強くどんと、それこそ渾身の力で拳を打ち付けると、気分を落ち着けるためにも物理的に距離を置こうと青年の腕から抜け出そうとする。
 けれどその腕が解かれる事はなく、それどころか逆に彼女を閉じ込めようと包むだけだった抱擁が強く確かなものに変わる。
「……アレックス?」
「君の怒りは正しいよ。俺は、君が哀しむ事も、心配するだろう事もわかっていながら何も言わず出奔した。前もって、伝える事ができなかったわけじゃない。ただ、あえてそうしたんだ」
「どうして……どうしてそんな事を……?」
 思いがけない言葉に抵抗も忘れて呆然と問う。見上げた先にあったのは、彼女もはじめて見るほの暗い、けれどぎらぎらとした視線。ひゅ、と、喉の奥で行き場をなくした呼気が音を立てた。
「確かめたかった。君が、どれほどの強さで俺を想ってくれているのか」
 常より低いその声に、背筋がぞくりと甘い痺れを覚える。これは、何。これは……本当にアレックス? こんな彼は知らない。こんな彼は、見た事ない。今すぐこの腕の中から逃れなければと頭の片隅で冷静な自分が警鐘を鳴らす。けれど同時に、今ここから逃げ出してしまえば、二度と戻ってこれないだろう事もわかっていた。
 だから選んだ。ぎらぎらとした、捕食者のような瞳で自分を見つめるこの男性の腕の中に留まり続ける事を。
「――確かめる必要なんて、なかったのに。私はいつだってあなただけを見ていたわ。あなた以外なんて目にも入らなかった。そんな事、ちゃんと知っていたでしょう?」
 僅かに震える声で確かめるように問いかける。苦笑を浮かべたアレックスは一つ頷いて、エレオノールの頬に指の甲でそっと触れた。
「ああ、知っていた。けれど、確信を持ちたかったんだ。君の感情が幼い憧れではなく、もっと強い何かなのだと」
「それで、結果はどうだったの? あなたの望むとおりだった?」
 頬を撫でる指を己の小さな手で包み、そっと頬を寄せる。そうして多少の不安を滲ませつつも、挑戦的な視線を投げた。真正面からその視線を受け止めたアレックスは、やはりエレオノールがこれまでに見た事のない艶やかな笑みを浮かべると、はっきりと首肯した。
「期待以上だったよ。君の心も、君自身も」
 少女の身体を抱きしめる腕に力が篭る。今更に、ぴたりと密着する身体の熱さを意識して、エレオノールはたじろいでしまう。さっきと同じだ。逃げ出したくもあり、このまま呑まれてしまいたくもある。
 この先に何が待つのかを知らないような子供ではない。けれどこの瞬間に覚悟を決められるほど成熟してもいなかった。
「アレックス……」
 呼びかける声の震えは怯え故か、それとも期待に寄るものか。ただ、自分自身の耳にも酷く甘く聞こえたのは確かだ。ごくりと唾液を飲み下す喉の動きを間近に目撃し、ふるりと身体が震えた。
「エレン、駄目だ。そんな風に誘わないでくれ」
 切なげに熱い息を吐き出してアレックスが困ったように告げる。誘ったつもりなんて欠片もなかったエレオノールには予想外の言葉だったけれど、つまり彼は自分を魅力的だと認めてくれたのだと前向きに受け取る。
 苦しげな彼の胸に身を摺り寄せ、自分と同じくらいかそれ以上に激しく打つ鼓動を聞き、緊張する肉体を感じる。すっかり慣れた筈の彼の体臭に、さっきまでとは異なる甘酸っぱい香りが混じる。不意に、まるで熱病に罹ったかのように身体が熱くなり、頭の芯がぼうっとした。早熟なクラスメートたちが男性について語っていた内容がふと脳裏に蘇り、彼女たちが言っていたのはこういう事なのかと頭の片隅で理解した。
 この人が欲しいと、求めてもらいたいと、強く思う。
「誘っては、いけないの?」
「今はまだ、ね。衝動に任せて君を傷つけたくない」
「あなたに傷つけられるなんてありえないわ」
「エレン……」
 頬に触れていた指が滑るように輪郭を辿り、顎を捉える。欲望に煙り濃さを増したアレックスの瞳には、すっかり女の顔になった自分が映っている。エレン、と掠れた声で呼ばれた。それだけで、頭を冒す痺れが強さを増す。
「もう少し猶予をくれ。でも、必ず君を浚いに行く。これは……その約束の印だ」
 ゆっくりと近づいてくるアレックスの瞳をじっと見つめる。見つめられる事に耐え切れず瞼を下ろしたのと、乾燥してはいても柔らかな唇が彼女の震える唇を覆ったのはほぼ同時だった。
 ようやく再会が叶ったとはいえ、エレオノールには両親の監視の目があったし、何よりアレックスは他のカメラマンや記者などが思わず二の足を踏むような危険地域を主な活動の場としていた。それゆえに落ち合えるのは三ヶ月に一度会えればいい方で、酷い時には半年以上何の音沙汰もない、という事も少なくなかった。
 当時の彼女にとって最大の恐怖は、万が一にも派遣された先でアレックスの身に何かが起きてしまったら、というその一点にあった。だから帰ってきたと連絡があれば、他の何を後に回してでも会いに行った。そうして無事を確認してようやく安堵できたのだ。
 二人の関係をいたずらに進める事を良しとしないアレックスは、常に外で会う事を選んだ。だから情熱的な口付けや少しばかり度の過ぎた触れ合いはあっても、一線を越えるまでには至らなかった。エレオノールとしては全てを捧げる事に何のためらいもなかった。けれども、激しく自分を求めながらもけじめをつけたいと繰り返す恋人の言葉に抗う事はできなかった。
 アレックスと生きる未来を思い描いた時、今のままの自分では足手まといにしかならないと気づいたエレオノールは、本来なら習う必要のないはずの家事を覚え、世界情勢に対する興味を深めた。大学では社会学と政治学を取り、学生ボランティアとしてスラムや紛争地帯への支援を主とするNGOにも参加した。
 そんな彼女を、何も知らない両親や同じ階級に生きる周囲の人間たちは何か不思議なものでも見るような目で見ていた。役に立つ事などないのになぜそんな事をするのかと問われた事は一度や二度じゃない。もっと他の、素養や教養を高めるために時間を使えばいいじゃないかと諭された事も少なくなかった。けれどそういった事こそが、エレオノールにとっては意味のない事だった。
 全ては愛する人との未来のため。その筈だったのに、事態は彼女の知らないところで望まぬ方向へと動き出していた。