かぶ

Goodbye To You, My Love : Eleonole - 03

「エレオノール……?」
 驚いた顔で自分を見つめるアレックスに、彼女は今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
 彼が驚くのも当然だろう。彼女がいるのは彼のアパートメントの部屋の前で真夜中まで数分もない。何より彼女は、この訪問を前もって知らせていなかった。
「……突然来てしまって、ごめんなさい」
 何を言おうかなんて待っている間にシミュレーションしつくしていたはずなのに、実際に口から零れ落ちたのはそんな言葉だった。
 肩から提げた大きな荷物をゆすり上げて小走りに近寄ってきた青年は、求められるままに抱擁を与えると、少女のか細い肩を両手で掴んだ。
「エレン、どうしたんだ? なぜこんなところに……?」
「両親が……私の、結婚話を決めたわ」
 息を呑む音が間近に聞こえた。肩を掴む手に力が入って、ほんの少し痛い。
 それが顔に出たのだろう。なんとか衝撃を収めたアレックスは、少しばかりためらいながらも彼女を自分のアパートメントへと初めて招き入れた。
 けっして広いわけではない部屋は、奥の作業場所を除けばとても整然としていた。考えてみれば、アレックスの部屋と呼ばれる場所に足を踏み入れるのはこれが初めてだ。くるりと部屋の中を見回しながら、浮かれて早鐘を打つ心臓をそっと押さえる。
 勧められた椅子に腰掛け、差し出された砂糖なしのカフェオレを口にする。苦味の強いそれは、けれど冷え切っていた身体を確かに温めてくれた。
「それで……一体、どういう事なんだ?」
 ようやく人心地がついたのか、小さなテーブルを挟んで真正面に座るアレックスが穏やかに問う。その真剣な表情に、彼は全てを受け止めてくれるつもりなのだとの安堵を得てようやく、エレオノールはとつとつと言葉を綴りはじめた。
「私、きちんと隠していたつもりだった。でも、やっぱりあなたとの事……両親には気づかれていたみたい。危機感を感じたんでしょうね。あの人たちにしてはとても周到に進めていたわ。相手はデュボワのネイサンで、大学を出たらすぐにでもって。確かにね、少しおかしいとは思っていたの。両親に連れて行かれたパーティにはほとんど必ずってくらいにいたし、何かと二人きりにさせようとしていたし。時には私のドレスと合わせたチーフを挿してたりして。気づいた時にはもう周囲の事実になっていて、後は婚約パーティを待つだけ状態。冗談じゃないって言ったけれど、無駄だって。好きな人がいるって言ったけれど、あなたはすでにピーターセンの家とは関係のない間柄だから認められない、どうせ政治を学んだのなら、来年の市議選に出るネイサンの妻となって彼を支えるのがいいって」
「ネイサンが政治家だって!? 冗談だろう?」
「やっぱりあなたもそう思うわよね。でも、本気みたい。私も同じ事を言ったわ。だけどすでに決定事項だからって私一人じゃ覆せなくて。きっと……あの家にいたら、問答無用で結婚させられてしまう」
 そこまで言うのが精一杯だった。今になって、この衝動的な行動がどれほど子供っぽい行動だったのかに気づいたのだ。
 けれどだからといってこの場から飛び出すわけにも行かない。それに、せっかく事態がここまで進んだのだ。どうせならばこの際に、全てをはっきりさせてしまいたい。
 アレックスとの関係が一体何なのか断言できないような今の状態では、前に進む事も、後ろに戻る事も、違う道を選ぶ事すらできない。
 緊張のせいでからからに渇いてしまった口の中をカフェオレで無理やり湿らせて、エレオノールは
「私は、あなた以外は絶対に嫌よ。だけど、私一人じゃ両親に立ち向かうにしても、反乱を起こすにしても無理がありすぎるの。だから……」
 意識して、深呼吸をする。そうでもなければ、今この瞬間にも窒息してしまいそうだった。
「あなたが、決めてちょうだい。私が両親に従うべきか、全てを捨ててもあなたを選ぶべきか」
 何を、と、声にならない声が聞こえた。感情の強さで色を変えるアレックスの瞳が、常よりも薄くなっていた。
「――結論を出すのは、今じゃなくてもいいわ。ただ……あなたがどんな結論を出すにしても、今夜は、この夜だけは、私にちょうだい」
「エレン!?」
「お願い、何も言わずに私の言う事を聞いて」
 立ち上がりかけた青年を強い眼差しで遮り、エレオノールは必死に言葉を続ける。今止められてしまっては、きっと二度とこんな事、口になんてできない。
「あなたの事が好きなの。真剣に。心の全てをかけて。小さな頃から、ずっとあなたが好きだった。あなたしか目に映らなかった。たとえ他の男性に嫁ぐ事になっても、それは変わらないと思う。きっといつまでもあなただけを想って、私は生きるわ」
 それは甘い幻想などではない、これ以上になくはっきりとした確信だった。
「だけど、それでもね、時には苦しくなってしまうの。あなたに同じだけ愛してなんて、私には言えない。そんなの、言ったところでどうしようもないでしょう? あなたがどんな結論を出したとしても、この一度だけは私は何も言わずに従うわ。だけどどうか、私に触れる初めての人になってちょうだい。これからの人生を生きていくために、あなたに愛されたという記憶が欲しいの。だからお願い。あなたという存在を、今夜だけでいいから、どうぞ私に独占させて?」
 言い切って、ゆっくりと立ち上がる。瞳は心の窓というけれど、きっとそれは本当だ。だってアレックスの瞳が、いっそ哀れになってしまう程に揺れているのだもの。
 動揺を映すその瞳から視線を逸らさないまま、エレオノールはテーブルを回ってただ一人恋焦がれる男性の傍らで足を止める。そっと持ち上げた手で、短く刈られた頭を、壊れそうなほどに鼓動を打っている胸へと抱き寄せた。そして、声を出すどころか指一本動かす事すらできなくなってしまったその人の唇へと、彼女は自分自身の震える唇を強く押し付けた。


 振り返ってみれば、人生を左右しかねない選択肢をエレオノールが誰かに託したのは、あれが最初で最後だった。
 もちろん彼女の無謀な賭けは、彼女自身やアレックスだけでなく、多くの人々にさまざまな影響を与えた。両親は怒り狂い、全てが手遅れになってしまうまで二人の事を許してはくれなかった。ゲオルグも、偶然にも友人がアレックスの所属する新聞社で勤めていたせいで二人の様子を監視する役目を与えられてしまった。それが機となりゲオルグは政治家を目指し、アレックスを喪ったエレオノールを娶る羽目になったのだと考えると、少なからず、彼の将来を捻じ曲げてしまったという感情がくすぶっている。もちろん、夫はそんな事は一言も言わないが。
 けれどエレオノールは、これまでに下したどんな決断も後悔した事はない。
 苦しい思いを、哀しい思いをした事は確かに一度や二度ではない。それでも間違った判断を下したと思った事は一度もないのだ。
 とはいえど、エレオノールも迷いを持つ事はやはりある。今がその時だった。
「……今頃クライブはジーナと一緒にいるのだろうかね。説得は上手くいってるんだろうか」
 そっとかけられた言葉に視線をほんの少し上げる。目の前のガラスに淡く映りこむ夫の姿を認め、彼女は微かに首を傾けた。
「そうね。きっと悪くはないんじゃないかしら。クライブには有り余る情熱と愛情があるもの。ジョージーナだって彼をとても愛している。だから、そうすんなりと行かないとしても、最後には説得できるんじゃないかしら」
「君がそういうのなら、きっとそうなんだろうね」
 彼女の声に何を感じたのか、深い眼窩の奥の双眸を和らげ、ゲオルグが一人がけのソファへと腰を下ろす。
 本当ならこの時間、彼はどこぞのチャリティ・パーティに参加しているはずだったのに、筆頭秘書であるクライブが傍を離れるからというだけで参加をキャンセルしてしまったのだ。対外的にはもっともらしい理由をつけているはずだが、実情なんてこんなものだ。そうしてまたふと思う。もし今夜、彼がチャリティに参加する事で何かが変わっていたのかしら、と。
「どうしたね。何か考え込んでいるようだけれど」
「別に……他愛のない事よ」
「そうは見えないから訊いているんだ。私では頼りにならないのかな」
 虚像の彼ははっきりと彼女へと視線を留めている。けっして非難しているわけではないそれは、しかし今のエレオノールには十分すぎる程痛いものだった。
 まだ心は決まらない。決断を下すには、判断材料が絶望的に足りていない。彼なら、彼らなら、どうやってこういったシチュエーションを乗り越えるのだろう。乗り越えてきたのだろう。
「本当に、大した事じゃないの。ほんの少し……過去の事を、考えていただけで」
「ああ……なら、邪魔をしてしまったかな。彼の事を、思い出していたのだろう?」
 結婚して二十年以上が経つというのに、ゲオルグはまだエレオノールが全てをかけて愛した相手に遠慮を見せる。それはきっと彼自身がアレックスを兄のように師のように慕っていたからでもあるのだろう。他の人たちにはただの人であったとしても、二人にとってはとても大きな意味を持つ人だった。だからこそ彼が失われた時には、二人とも深く深く傷ついたのだ。
 意識せず話題が望む方向へと進んでいる事に気づき、エレオノールはためらいながらも更に先へと誘導する。
「いいえ……いえ、そうね、少しは考えていたかしら。だけど私が考えていたのは、実はあなたの事なのよ。ほら、私があの人と一緒に暮らしていた頃の事。あなたってばよくあの人の働いていた新聞社にも顔を出していたでしょう? まあ、あの人やお友達だけでなく恋人がいたのだから当然なのでしょうけど」
 くすりと笑って振り向けば、ゲオルグは驚いたなとでも言うように僅かに目を見開いていた。
「もしかして隠しているつもりだったの?」
「いや、そういうつもりはないが……彼女とはそう長く付き合ったわけじゃないからね。君が知っているとは思わなかったよ」
「馬鹿ね。私には情報源が二人もいたのよ? 伝わらないわけないじゃない。……まあ、あまりいいニュアンスではなかったけれど」
 からかいをこめて睨めば、白い肌にほんのりと朱が上る。居心地悪く身じろぎをすると、彼は言い訳するように反論した。
「そうは言っても仕方がないじゃないか。周囲はみんな恋人がいて幸せそうにしている中で、僕だけ一人だったんだ。それに、不誠実な事をしていたつもりはない。将来を考える程の仲ではなかったけれど、きちんと大切にしていたし、振られた後はしばらく落ち込んだからね」
「あら、でも、振られるような事をしたのでしょう?」
 わざとらしく驚いて見せれば、今度は少しばかりむっとした様子を見せる。
「まさか。僕は何もしていないよ。ある日一緒に夕食でもと思って迎えにいったら、ルームメートの子に彼女は故郷に帰ったと告げられたんだ。彼女が僕に残していたのは、とても短い手紙だけだった」
 苦い息を吐くその横顔はエレオノールもはじめて見る表情で、まだ知らない表情があったのかと仄かな驚きを覚える。
「ケヴィンが何かと入れ知恵をしていたのは知っていたけど、ある事ない事ってレベルのものではなかったし、むしろ擁護するコメントの方が多かった。ほとんど毎日会っていたし、プレゼントやサプライズも欠かさなかった。彼女が夏が終われば学業のために故郷に戻るのはわかっていたからこそ、一緒に過ごせる時間を少しでも作るべく努力すらしていた。なのに突然、なんの相談もなくさようなら、だ。何か誤解を与えるような事をしただろうか、嫌がる事をしていただろうかと自分の行動を何度も振り返ったけれど思い当たる事は一つとしてなかった。……まあ、僕がそう思っているだけで、彼女には何か事情があったのかもしれないけれど」