かぶ

Goodbye To You, My Love : Epilogue - 02

「クライブ! ゲオルグもよ。二人して一体どこに隠れていたの?」
 小走りに駆け寄ってくる彼女へと、クライブは足早に近づいてその身体を抱き留める。
「やあ、奥さん。一時間ぐらいぶりかな?」
 満面に笑みを浮かべたままの彼女をしっかりと抱き寄せ、そっと左瞼に口づける。くすぐったそうに身じろぎしながらも逃げる素振りは見せない彼女に、幸福という言葉の意味を改めて実感する。
「身体は大丈夫かい?」
「ええ。今日はね、朝からとても調子がいいの」
 ゆったりと頷きながら、ジョージーナはそっと下腹部に手のひらを滑らせる。その小さな手に自分の手を重ねて、クライブは妻の瞳を覗き込む。
 そこに見えるのは、幸せに緩みきった自分の影と、そんな自分を愛しげに見つめてくれる彼女の瞳。
 望んだ全てがここにあると、心の底からそう思う。
 そもそもクライブが政治家を目指したのは、治安のよくない地域に生まれ育ち、そこで凄惨な日々を生きる子供たちを一人でも減らしたいという思いからだった。
 初めは何もかもが手探りで、たくさんの人々の力を借りてようやく立ち上げたNGOが少しずつ規模を大きくし、「あなた方のおかげでここまでこれた」と胸を張って宣言してくれる子供たちの数が増えるにつれて、もっと他のやり方でも目標は達成できるのではないかと考えはじめていた。
 そんな時に、ジョージーナの本当の素性が知れたのだ。
 尊敬するゲオルグの名に傷をつけたくないという想いは、クライブとジョージーナのどちらもが持っていた。
 だからこそ二人で繰り返し話し合った結果、二人ともがゲオルグの元を去る決意を決めたのだ。
 そうしてジョージーナの実の父親がゲオルグと判明してから一ヶ月ほどが経ったある日、クライブとジョージーナは揃って辞表をゲオルグへと差し出した。
「もし君たちが私のキャリアを思ってそうしているのなら、その必要はない。エレンも理解を示してくれている事だし、状況が求めるのならばジーナの認知も考えている。だからそのような結論に飛びつかないでくれ」
 差し出された二通の辞表を前に沈痛な表情で告げたゲオルグに、ジョージーナは頑なに首を横に振り続けた。
「ゲオ、あなたのお気持ちはとても嬉しく思います。ですが私にとって、たとえ血の繋がりはなくとも、父親はダニエル・ニコライただ一人なのです。……ですが、やはりあなたの婚外子である私があなたの側にいるのがいい考えだとは、どうしても思えません。特にここで、あなたの元で働いているというこの状況が、万が一事実が明らかになった際に、大きなスキャンダルを呼んでしまいかねません」
「そうなればその時だ。私は公明正大に全てを明らかにしよう。後ろ暗いところは何一つないのだからね」
「ゲオ……あなたこそ、少しばかり近視眼的になってますよ。冷静になってください。万が一そのような状況になれば、ハイエナが群がるのはあなただけじゃない。ジーナもそうですし、ダニエルも、何より自ら反論する事のできなくなってしまったアネットまでが、世間の好奇心に晒される嵌めになるのですよ?」
 クライブのこの説得が、最終的に功を奏した。
 ゲオルグやエレオノールを交えて何度も繰り返された話し合いの末、ジョージーナはそれから三ヶ月後にゲオルグのパーソナルアシスタントを辞める事にした。もちろん後任となる人材を選任し、きちんと引継ぎを終えた上での事だ。彼女は今、空いた時間を故郷で一人暮らすダニエルのリモート秘書や、クライブが大学時代から仲間たちと続けていたストリートチルドレン支援NGOの業務に充てている。
 だが、そう簡単に動けなかったのはクライブの方だ。
 元々自分の後継者と目していた事もあり、ゲオルグの引きとめ作戦は実に執拗だった。結局二年という期間の後に辞職が決まったのだが、そこで問題となったのが後任者だ。
 秘書という仕事は一見誰にでもできそうに見えるが、その実上司と深く関わる事になるため、余程相性がよくなければ長く続ける事はできない。特に政治家の秘書ともなれば、扱う情報や書類が国家に関わる内容である事も少なくない。それ故に、人選には慎重の上に慎重を期した。
 最終的に、かつてのクライブ同様党本部で働いていた青年をスカウトし、半年の試用期間の後に正式採用となった。膨大な引継ぎ内容は当人たちを圧倒し、きっぱりと二年で辞めると言い切ったクライブ自身が、それまでに全てを伝えきれるのだろうかと戸惑ったくらいだ。
 二人が結婚したのは一年前の事だ。
 引継ぎの大部分を終え、後任の秘書がゲオルグと行動を共にするようになって以来、彼はNGOの仕事に本格的に取り組むようにもなった。それはジョージーナと過ごす時間が増える事も意味していて、クライブにとっては正しく薔薇色の日々となった。
 そんな中、つい数週間前に新たな幸せの種が二人の元に根付いたと知れたのだ。
 まだ膨らむ様子のないその場所に命が息づいているのがクライブにはどうにも不思議で、日に何度もその場所に触れては「またなの?」と、呆れの混じったくすぐったげな声に現実へと引き戻される。
「そうは言うけれど、やっぱり僕も早く感じたいよ」
「私だってまだ全然感じられないくらい小さいのよ? 本当に、あなたってばせっかちね」
 くすくすと笑う二人の傍らで、ゲオルグとエレオノールがそれぞれに足を止めた。
「やあ、ジョージーナ。手配の程はいかがかな?」
「小さな問題ならありますけど、すでに対応済みです。大きな問題も起きてはいませんしね。……実は、パーティの采配を取るのは本当に久しぶりなので、お話を受けた時はとても不安だったんです」
「何を言いだすかと思えば! いいかい、ああいったものは経験と慣れだ。一度身に付きさえすれば、そう簡単に忘れたりはしないよ」
 気弱な発言をするジョージーナにわざとらしく顰め面をすれば、照れたような笑みが返ってくる。その笑みに遠い日の面影を垣間見て、しくりと胸の奥が軋みを上げる。
 降り積もった記憶の底で消えてしまったと思っていた思い出がふとした拍子に浮かんでくる。それはとても儚くて確かな手触りもないのに、甘苦い痛みだけをゲオルグに与えるのだ。
 あれが本当に恋だったのか、それすらも思い出せないのに。
 もちろん、後悔などしたところで過去は変えられないし、謝る相手べきすらもう存在しない。だからこの事で泣き言や恨み言を口にするつもりはまったくない。いや、いっそそんな痛みがある事すら、誰かに漏らすつもりはない。
「そうはおっしゃいますけど、初めの頃は段取りや手順がもうめちゃくちゃで! 以前はどうやっていたのかが全然思い出せなくて、一人で途方にくれていたんですよ」
「でもジーナ。さっきも言ったでしょう? それはあなたが今は別の事をしているからであって、あなたの能力が枯れてしまったというわけではないのよ。私たちという器にぴたりと嵌るやり方と、今のあなたのお仕事に合うやり方とでは、形が違って当然だもの。それを無理に昔の形に戻そうとするから、こんなはずじゃなかった、なんて思うのよ」
 完璧主義者のきらいのあるジョージーナへと、エレオノールが穏やかに告げる。それはわかっているんですが、と顔を顰めるその頬に、クライブがすいと指を滑らせる。
「ほら、そんな風に根を詰めない。君の眉間だけじゃなく、生まれてくる子の眉間にまでしわが刻まれてしまうよ」
「それはいけない! ジーナ、今からでも遅くはない。すぐに責任者の座をそこにいる裏切り者に押し付けて、君はゆっくり休養するべきだ」
「……ゲオ、いい加減裏切り者扱いは止めてください」
「せっかく優秀な後継者を見つけたとほくほくしていたのにその期待を大きく裏切られたんだ。しかも今後はこれまでの人脈を利用してあれこれ口出しをしてくる気満々なのだろう?」
「大人げがなさすぎますよ、ゲオ。ああ、でもそういうのでしたら、僕はあえて表に出ず、ジョージーナに伝書鳩をしてもらいましょうか」
「――お前、実は政治家ではなくロビイストとしての才能があったのか。早いうちに気づけてよかった。この際だから縁も切っておくべきかな?」
「かまいませんよ。その代わり、ジーナとも自動的に縁が切れますが」
「今度は脅迫か! ジーナ、本当に悪い事は言わない。こんな恐ろしい男などさっさと捨てなさい。いずれ国家転覆のシナリオを描きかねないぞ!」
「あなた、そこまでになさい。いい加減みっともないですよ」
 まるで駄々っ子のように振舞うゲオルグに、エレオノールが苦笑を浮かべる。
 ゲオルグがこういった馬鹿馬鹿しい振る舞いができるのは、ごく数少ない心から信頼の置ける友人たちの前に限られている。その筆頭が、ここにいる面々だった。
「開場を十四時半にしていますので、もうしばらくしたら早くお着きになるお客様がお見えになるかもしれません。軽いスナックをキッチンに用意してますから、少し口にされていた方がいいと思いますよ」
 憂いのない微笑みを浮かべてジョージーナが告げる。
 男女の差によるものだろうか。自分より余程柔らかな表情を浮かべる彼女を見るにつけ、失ったものの大きさを思い知る。だが、運命が偶然を装って彼女を自分の前に連れてきてくれていなければ、彼女の存在を一生知る事はなかっただろうし、掛け金を一つ掛け間違えていれば、最悪のタイミングで最悪の手段で持って知らされていたかもしれないのだ。
 そう思えば、自分がどれだけ幸運に恵まれているのかを再認識する。
(いや、違うか。恵まれたのは、賢明な伴侶に、だ)
 傍らでやはり穏やかに微笑む妻へと視線を落とす。ここにいる誰よりも背が低く身体も小さいのに、彼女の存在はもっとも大きい。
 エレオノールがジョージーナの存在に気づき、その上で全てを受け入れる決意をしてくれていなければ、今のこの穏やかな時間も存在しなかったのだ。
「私の好物のメイプルタルトはもちろん、エレンためのレモンタルトも用意されているのだろうね?」
「ええ、もちろんです。先日ミッシャが送ってくれたローズハニーも、紅茶のお供に添えています」
「素晴らしい! 客人たちに消費されてしまう前に賞味しておこうか。――エレオノール、君も一緒にどうかい?」
 軽く曲げた肘を差し出すと、エレオノールは僅かに驚いた顔になりながらも、すぐに腕を取ってくれた。
「旦那様のお誘いでは断るわけにもいきませんね。あなたたちにも二人きりの時間が必要でしょうしね」
「む。それは聞き捨てならないな。よし、君たち二人も同行したまえ」
「ゲオルグ。僕もジョージーナも、今はあなたの部下じゃないんです。ご命令に従わなければならない理由はありませんよ」
「……お前、本当に可愛くなくなったな」
「鍛えられましたから」
 いっそ小気味よいまでに爽やかに微笑む元部下の青年を、ゲオルグは渋い顔で睨みつける。当事者ではない女性たちのさざめくような笑い声が耳に心地いい。
「ここはあなたの負けね。さあ、諦めてキッチンに行きましょう。エスコートしていただけるのでしょう?」
「もちろんだとも。――では二人とも、また後で」
「はい」
「ごゆっくり」
 会釈してくる二人に頷きを返し、妻と共に踵を返す。小さな歩幅にあわせて歩くゲオルグの心は、すでに自分を待つスナックへと飛んでいた。