かぶ

Goodbye To You, My Love : Epilogue - 01

 その日は朝から見事な秋晴れで、天気予報がいくら晴天を予報していても信用しきれるものではないとやきもきしていた人々を心から安堵させた。
 穏やかに緑から黄へと色を変えつつある芝は綺麗に掃き清められ、落ち葉の一枚も残っていない。こうして二階の窓から見下ろせば、絶妙な濃淡が秋らしい色合いの絨毯であるような錯覚すら覚える。純白のクロスをかけた丸テーブルがいくつも並べられているせいもあって、この窓からの風景を上手く切り取れば、どこかのパーティホールだと言っても通じてしまいそうだ。
 まったく、この準備のために一体どれだけの時間をかけただろう。ただでさえ色々と環境が変わって忙しさに拍車がかかっていたのだ。だというのに、この特別なイベントを企画から手配まで自ら手がけようとしてしまったせいで忙殺とはこの事かと身をもって実感する羽目になってしまった。
 いや、それ以前に誰が、よもや主役となる二人をを説得するところから始めなければならないなど想像しえたのか。もちろん、彼の賢く全てを見通せる目を持つ女性を除いての話だが。
「……首謀者がこんなところで何を黄昏てるんですか」
 背後からかけられた呆れたような疲れたような声に振り返れば、燕尾服に身を包んだクライブ・サットンが諦め混じりの苦笑を顔に貼り付けて、開け放たれたドアの枠にもたれていた。その表情から急ぎの用事ではないと判断する。どうやら準備が済んで暇ができたため、文句を言う相手を探しにやってきたらしい。
「別に黄昏ていたわけじゃない。まあ……思っていたより長くかかったな、とは思っていたがね」
 とっさに返した反論が正確ではないと気づいて、ゲオルグ・フォン・フォルトナーは言葉を継ぐ。これも長年政治家などという職に就いているがために身に染み付いた習いだ。
 そんな自分の反応に思わず眉根を寄せた雇い主に小さく笑いながらクライブは室内へと歩を進める。
 比較的若い頃から年齢に似合わない落ち着きを持っていた彼は、年齢と共に知識や経験を正しく培ってきた自信が自然と滲み出るようになってきた。本人にもその自覚は少なからずあるのだろう。いい意味でのふてぶてしさを見せる事もここ最近になって増えている。
 いい男になったと、素直に思う。
 男としても一人の人間としてもこのように歳を重ねられたら本望であろう。
 同時に、自分はどのように生きて歳をとってきたのだろうかと自らを振り返る。自分にも他人にも恥じない生き方をしてきたはずだと思えるだけ幸せなのかもしれない。
 考えれば考えるほど、目の前の青年を手放すのが惜しくなる。今更言っても仕方のない事だと知りながら、ゲオルグはすでに幾度となく繰り返した問答を改めて口にする。
「しかし……やっぱり惜しいな。今からでも遅くはない。考えを変える気はないか?」
「ゲオ……まだ蒸し返すんですか? 僕はこれまでに何度も言ってきたはずですよ。あなたの息子にはなりませんって」
「だが、サットンよりもフォン・フォルトナーの方が通りはいいはずだ」
「それは事実ですが、あんまり僕とあなたを直接的に結び付けられるのも嬉しくないんですよ。第一あなた、何だかんだ言って一石二鳥狙いですし。僕を身内にする事で、ジョージーナをも身内にしてしまいたいんでしょう?」
「む」
 図星を指され、思わず黙り込む。
 クライブもそうだが、ジョージーナに対しても、その付き合いが長く、また深くなればなるほど何かしら目に見える確かな絆を持ちたいという望みが強くなって仕方がない。
 これまで自分は大して我欲が強いわけでも独占欲が強いわけでもないと思っていたのだが、実はそうでもなかったらしいとここ数年で如実に思い知らされている。希薄だと思っていた家族に対する情も、やはり自分で思っていた以上に深かったのだと知ったのも比較的最近の話だ。
「まったく。どうしてこうもあれやこれやのタイミングが重なるかね。……お前たち、実は裏で談合していたりしないか?」
「フォルトナー上院議員。寝言は寝てからにしてください。それともとうとう耄碌しましたか? もしそうでしたら、メディアやら敵対勢力に嗅ぎ付けられる前にきっぱり勇退宣言した方がいいですよ」
 付き合いきれないとばかりの口調ながらも、茶色の瞳には笑みが浮かんでいる。この手の毒舌混じりな会話は、かつてはゲオルグとジョージーナの間でよく交わされていた。それが気がつけば、彼女に感化されてしまったらしいクライブを相手取るのが日常となっている。
 移り変わるのは時だけではなく、人やその性質もなのなだと、やけにしみじみと納得してしまった。
「……ゲオルグ? いつもと様子が違うようですが……本当にどうされたんですか?」
 不意に黙り込んだ雇い主を、青年は覗き込むように見上げてきた。出会った当初に比べれば格段に視線は近づき、幼さを残していた風貌はすっかり一人前の男になってしまっている。けれどこうして気遣う表情は、十数年前と変わらない。
「――いや、なんでもない。ただ少しばかり、過ぎ去った時間を思い返してしまっただけだ。人間、歳をとると感傷深くなっていけないね」
「過去を振り返って感傷に浸るのは、別に歳だからとは限りませんよ、ゲオ。僕もジーナも、このところ何かと昔を思い出す事が多くて、その度に二人して懐かしいねと笑い合っているんです。それもこれもきっと、今日が大きな節目の日に当たるからでしょうかね」
 だからそんな気弱にならないでください。あなたらしくもない。
 真剣な瞳でそう告げたクライブは、しかし自分自身も懐かしげな表情で言葉を続けた。
「でも……本当に、時が経つのは早いですね。覚えてますか? 僕があなたとまともに言葉を交わすようになった当初は僕の背はまだあなたの肩を超えるか超えないか程度で、自分でも青臭いなと笑ってしまうくらい夢と希望に燃えてましたよね」
「奇遇だな。私もそれを思い出していたんだ。『僕、将来は市議のような政治家になりたいんです!』なんて目を輝かせていたのがまるで昨日の事のようだというのに、さっきのお前ときたら人を耄碌扱いするのだからな。本当に、よく育ってくれたよ」
「それは、正しくあなたの教育の賜物ですね。」
 快活に笑って肩を叩いてくるクライブに、それもそうだなと頷いてみせる。無意識に猫背になっていた背中を伸ばして深く呼吸を繰り返せば、先刻まで心を覆っていた淡い陰鬱のヴェールはすでに影も形も残っていなかった。
 先を歩く青年について階段を下り、ディナー用にとセッティングされているダイニングを通り抜けてティーパーティが予定されている前庭へと出た。
 室内から外へ出ると、熱を持たない空気に身体がふるりと震える。けれど燦々と辺りを照らす陽光に、奪われた以上の熱を与えられ、ほっと息を吐く。
 しばらく前までは準備のために人々が忙しく動き回っていたのだが、ひと段落ついたのだろうか、すっかり閑散としてしまっている。
「どうやら準備はすっかり終わっているようだね」
「その、ようですね……」
 雇い主へとどこか上の空で言葉を返し、クライブがきょろきょろと辺りを見回す。彼が探しているのが誰なのかを知るゲオルグは、息の下でそっと笑う。
「あ、いた!」
 上げられた声は、すぐ傍らにいるゲオルグにもかろうじて聞き取れたくらいの小さなものだった。けれどその声に含まれた喜色は純粋なもので、また微かな笑いが漏れた。
 焦がれるように青年の見つめる先へと視線を向ければ、木陰の下で二人の美しい女性たちが穏やかに言葉を交し合っているのが見えた。
 淡い薔薇色のジャケットとロングスカートに身を包んでいるのはエレオノールだ。周囲の気配には敏感な彼女だが、距離がある上にどうやら話に夢中らしく、こちらに気づく気配もない。
 しかしそれも仕方がないだろう。何しろ話の相手は、彼女の大のお気に入りであるジョージーナなのだ。
 母親が急逝してしばらくの間、彼女はグレイやダークブルーといった暗い色ばかりを身に纏って喪に服していた。けれどそれも一年が過ぎた頃から少しずつパステルカラーのアクセントを取り入れるようになり、表情も明るさを取り戻した。そうなってようやく、ずっと恋人の様子を見守っていたクライブも、彼らしい快活な笑みを見せるようになった。
 柔らかに微笑むジョージーナが今日のために選んだのはパステルイエローで、秋の日差しと相まって幸せ色に輝いている。
 エレオノールの言葉に何度か頷いた彼女は、ようやく視界の中にゲオルグとクライブの二人を認めたらしい。
 ほんの少し驚いたように目を見開いてから、ぱっと鮮やかな笑みを花開かせた。