かぶ

君だけの僕 ― 冬その二 02 ―

 彼の言葉は、ワカもだけれどそれ以上に僕に多大なる衝撃を与えた。
「こ、ども……? え、でも、僕、ワカ以外とはした事ない、よね?」
 同様のあまりおかしな事を口走った僕に、これまで沈黙を保っていた女性が傷付いた顔になる。
「宗谷さん、本当に杏奈のこと覚えてないんですか? 杏奈、宗谷さんにずっと尽くしてたじゃないですかぁ。一緒に帰れるようにお仕事頑張ったし、出かけるたびにお土産渡してましたよね?」
「――あ、なんか思い出した。うん、いた。顔とか覚えてないけど、職場で僕につきまとってた人、いた。そのせいで僕、夏前から体重落としてワカと先生に怒られたんだった。あといらないもの押し付けられて邪魔だったから、学院で使って下さいって寄付した気がする」
 ぼんやりと蘇ってきた記憶を確かめるように言葉にすれば、ピンクの唇をした彼女は思いっきり顔を引きつらせる。けれどそれにもめげず、悲しそうな顔を作って更に言葉を重ねた。
「あの夜だって……酔っ払ってしまった宗谷さんのお世話、すっごく一生懸命したんですよ? それで宗谷さん、安奈のこと……」
 そっと顔を伏せつつももの言いたげに僕を見てくるねっとりとした視線に、僕ははっきりと怖気が走るのを感じた。
 込み上げてくる嘔吐感をぎりぎりで抑え込みつつ、喘ぐように言葉を紡ぐ。
「いや、だから。僕は君を知らないし、そもそも僕は女性が苦手なんだ。だから僕に触れるのも、僕が触れるのも、ワカだけ、で……」
 はっきりと自身の意思を告げている最中、不意に薄暗いの映像が頭をよぎった。同時に背筋を悪寒が走り抜ける。
 あれは……あれは悪夢だ。ただの悪い夢。現実なんかじゃない。――その、はずだ。
 思うけれど、自分自身では確信が持てなくなるくらい、強烈な嫌悪感と共に『それ』が蘇ってくる。
 鼻を突く甘ったるい匂いと思うままにならない身体。ワカとは思えないくらいふにゃふにゃな柔らかい感触。あれは、悪い夢で。夢のはずで……
 自分自身でも血の気が引いているのがはっきりわかるくらい、全身が冷たくなっていた。震えているのは声だけじゃない。手も、足も、いや、身体中が、せっかく記憶から抹消した『それ』を思い出すのを拒否するように、かたかたと震えていた。
「……ワカ。あれは、あの嫌な夢は……夢、だったんだよね?」
「克己、落ち着いて。大丈夫。あたしがいるよ。ここにいる。だから大丈夫。何があっても離れないから。だから安心して」
 縋るように問いかけた僕を優しく抱き寄せる慣れた匂いと柔らかさ。それだけで、パニックを起こしかけていた僕は、ゆっくりと平静を取り戻す。けれど。
「ちょっと、やめてくれない? せっかく宗谷さんが杏奈のことを思い出そうとしてくれてるのに、邪魔しないでほしいんだけど!」
 ヒステリックな声が、過敏になっている神経を逆撫でする。
 この声の主が誰かなんて知らない。けれど、この声が以前にワカを侮辱したことを、なぜか唐突に思い出した。
「やめるのは君だ。――その声、覚えてる。前にワカを侮辱した声だ。どうして僕が、僕のワカを侮辱する相手の言葉に従わなければならない? 僕の唯一はワカだ。ワカ以外の女性なんて僕には必要ない。何を考えてこうして乗り込んできたのかは知らないけれど、僕たちの邪魔をするのはやめてくれ!」
「ありがとう、克己。でも、今はちょっと、落ち着こうね」
 ほんの少し笑って、ワカが僕を抱きしめる。とたんに頭の中を真っ赤に染めていた怒りが冷めていくのがわかって、どれだけ現金なんだと自分自身でもほんの少し呆れてしまう。
 だけど、今はちょうど良かった。だってここでワカが止めてくれなければ、きっと歯止めが利かなくなっていた。だから、よかった。
「……うん、ごめん。止めてくれて、ありがとう」
 素直に言葉を口にして、こつんと額を合わせる。うん、大丈夫。ワカがいてくれるなら、僕はいつだって幸せだし、大丈夫になれる。
 そんな風にせっかく僕が自分自身に言い聞かせていたってのに、場を読めない――というよりそもそも読む気すらなさそうな客人が騒ぎ出した。
「何してんの! 杏奈の前で宗谷さんに触らないで!」
「――うるさい、黙れ。その声、耳障りだ。聞いてるだけで気分が悪くなる」
 ただでさえ沸点が低くなっているのに重ねて無礼な言葉を投げられて、ワカの腕の中にいるってのに僕の機嫌はまたしても急降下する。
 それを顕著に感じ取り、ワカがまた小さく笑うのが聞こえた。
「すみません、お見苦しい場面をお見せして。ですが――これが現実なんですよ、風間さん」
 さっきぶりに聞くワカの冷やりとした声に、僕はそっと身体を離してワカの横顔を見つめる。僕を見つめる瞳とはまったく違う、温度のない視線。きっと僕も同じような目で彼らを見ているんだろう。
「……何が言いたいんだ」
「先ほども申し上げましたが、私と宗谷は長年ずっと一緒に住んでいるんです。友人たちもそれを知っておりますし、私と宗谷の関係を知る私の友人の口添えがあったからこそ、宗谷は少しばかり面倒な事情があるにも関わらず、お嬢さんと同じ会社に入社できたようなものです」
 ワカがこの言葉を口にした瞬間の彼らの顔は、実に見物だった。
 ここにきてようやく、鈍い僕はワカが口にしていた『彼らの狙い』が何なのかに気づいた。
 僕がコネで入社したことは、会社の中ではおおっぴらにはされていないものの、取り立てて隠されているわけでもない。
 というか、事情が事情とはいえ、新入社員の分際で入社一年足らずなのに自宅勤務を許されるとか、残業の代わりに早朝出勤させてもらうとか、いくら初期の経験値が高めだったからって開発チームには組み込まれないでフリーランスのような形で仕事をさせてもらうとか、普通に考えたらありえない。
 だから自然と、僕がうちの会社の大本あたりに強力なコネを持っているんだろうって事は結構あっさりと知れた。
 けれど誰にも知られていないのは、このコネは僕が直接持っているものじゃないって事。
 つまり、後ろ盾を求めて僕に近づいてきたところで、そこで行き止まりになる。
 何しろ本当に近づくべきはワカであり、ワカの心で繋がった姉妹で大親友のヨリちゃんなのだ。それから、コネの先である彼を通じて知り合った友人。
 だけどそんなこと、僕がわざわざ吹聴する必要もないし、そんなつもりもない。そもそも僕は自分からコネ入社を言いふらしたわけじゃないし、そもそも裏から手を回して入れてもらったからにはあぐらなんてかかず、きちんと自分の能力でもって恩を返しているつもりだ。
 ――それにしても、彼らはそういった裏をきちんと調べたりしなかったのだろうか。例えばこのコネ入社の件が根拠も何もないただの噂だったりしたならどうするのだろう。
 まったく、片手落ちにも程がある。
「な、に……?」
「あら、ご存知ありませんでしたか? ではもしかして、宗谷の事情もご存知ない? ……おかしいですね。お嬢さんが本当に宗谷とお付き合いされているのでしたら、知っていて然るべきなんですが……いえ、そもそもあなたでは無理でしたね。ごめんなさい」
 くすっと、例の女性を見ながら嗤うワカに、僕も小さく嗤ってしまう。うん、本当にそのとおりだ。
「……何よ。何が無理だってのよ」
「宗谷があなたとお付き合いする事が、です。何しろ彼は、いわゆる妙齢の女性が駄目なので」
「はぁ? ナニ言ってるのかわかんない。ていうか、だったらあんたは一体ナニなの?」
「わかりませんか。では言い直しましょう。宗谷は、二十台で、栗色の長い髪を巻いた、ばっちりメイク系の女性的な女性が駄目なんです。……ええ、ちょうどあなたのような」
 そう。だからワカは元来の性質がそうだってのもあるけれど、あまり女性らしい格好をしていないし、髪だってずっと短くしている。
 本人は「短い方が楽だから」と笑うけれど、僕も周りのみんなも気づいている。ワカは僕が長い髪を、特に色の付いた髪を苦手とする事を知っているから、髪を伸ばしもしなければ、染めもしないのだと。
 実際のところ、ヨリちゃんやりっちゃんは昔から髪を長くしている。けれど二人が二人だったし、色が黒かったという事が助けになって大丈夫だった。
 だから僕は、ワカの髪なら長くても色がついていても大丈夫だろうと思っているのだけれど、彼女は頑なに髪を染めず、短く保ち続けていた。
 ――比較的最近になってようやく彼女は地毛よりほんの少し淡い色合いに染めたのだけれど、僕に新しい髪を見せる時、ワカはとても不安がっていた。けれど僕は平気だったし、新しい髪の色はワカにとてもよく似合っている。
 とはいっても、やっぱりそれはワカがワカだからだったんだと思う。
 会社内にもたくさんいる女性たちの長い髪や色のついた髪が視界の中で揺れる度、僕の神経はちりちりと過敏に反応を示していたし、調子が悪ければ甘ったるい匂いや赤く塗られた唇が吐き気すら引き起こす。
 目の前の女性の唇はピンクだけれど、そんな事は些細な問題だ。
 何しろ彼女の全てが――ふわふわとした栗色の長い髪も、綺麗に施されたメイクも、丁寧に色を塗った長い爪も、フリルやレースを多用したおしゃれな服も、何もかもが僕のトラウマを容赦なく刺激する。
「どういう意味よそれ!? 自分が女らしくないからって、そんなコト理由にできると思ってんの!?」
「……ワカはちゃんと女性らしいよ。見た目じゃなくて内面が。見た目だって、僕の事を考えてこんな風にしてるだけだ。きちんとしたら、誰よりも綺麗になる」
 むっとして思わず反論する。とたん、隣で真っ赤になったワカがあまりに可愛くて、僕は本能のままに抱きしめそうになった。
 うん、抱きしめたかったんだ。とっても。
 だけどそんな僕を牽制するかのように鳴り響いたエントランスからの呼び出し音に今の状況を思い出し、僕は我慢する。
「ワカ」
「うん、多分そうだから、お出迎えして」
「わかった」
 短く言葉を応酬して僕は席を立つ。その背中を三対の視線が追いかけてきているのを感じつつ、僕は鍵を手に一階のエントランスへと降りていった。