かぶ

君だけの僕 ― はじまりは、春 03 ―

 宗谷、片山、と、二人の名字が並んでいる表札は、毎日見ているというのに見るたびくすぐったく嬉しくなってしまう。
 一応何人か、緊急事態が起きた時用にと合鍵を渡している人たちはいるけれど実際にそれらが使われた事は今までにない。つまり僕とワカが暮らすこの部屋の鍵を開けるのは僕とワカの二人だけ。そんな些細な事実ですら僕には幸せの欠片の一つで、毎日鍵を開けるたびにそのささやかな幸せを噛み締めている。
 このちいさなマンションに引っ越してきたのは僕の就職が決まった時だった。
 日当たりがよくて快適に暮らせそうで家賃が安ければいい、という僕たちが唯一こだわったのが立地で、僕が通勤する上で、なるべく長く電車に乗らずに済む場所というのがそれだ。
 本当は会社の徒歩圏内がよかったんだけれど、そこまで便利が過ぎるとそれはそれで問題を引き起こしそうだからと鈍行電車で三駅離れたこのマンションを最終的に選んだ。
 結果、ワカが当時通っていた学校や、今彼女が勤めている総合病院からは遠くなってしまったのだけれど、学校や仕事が始まる時間は比較的遅めだし、罪悪感を覚えるのならば早く帰ってきて夕食やお風呂の準備をしてくれればいいよ、なんて笑ってくれた。
 本当に、僕はいつだってワカに負担をかけてばかりいる。情けないと思ってはいるのだけれど、それを気にしてしまってはワカとは一緒に生きていけないから、何年も前にぐるぐると渦巻いていた迷いを全て振り切って開き直った。迷惑や負担をかける分、僕がワカを幸せにすればいいんだ、と。
 そんな風に名字の並ぶ表札に心をほっこりさせながら、僕はいつものようにインターフォンを一つ鳴らしてから鍵穴に差し込んだ鍵を回した。
「お帰り、克己。楽しんできた?」
 かちゃり、とドアを開けると同時に飛び込んできたワカの声と姿に、僕は全身を満たしていた緊張が一気に抜けるのを感じる。
 ちょっと癖のあるふわふわのショートヘアは柔らかな栗色で、髪から覗いた耳には、僕が就職して初めてのワカの誕生日に僕が贈ったガーネットのピアスが嵌ってる。昔から変わらない意志の強そうな眉と人の中身を見通すような強い目は、今は柔らかに微笑んでくれている。子供の頃の栄養状態は成長に悪影響を及ぼさなかったらしく、りっちゃん曰く「縦ににょきにょきと伸びた」おかげで僕もワカも身長は平均を超えている。だけどその代わりというか、僕もワカも痩せぎすだ。
 スポーツが得意な上に肉体労働をしているワカは筋肉質だからなのだけど、僕はただのガリ。ちょっと体調を崩すとワカの体重を下回ってしまうので、そのたびに「肉を付けなさい! てかあたしより軽くなるな!」と怒られてしまう。それもこれもワカが僕の身体を心配しているからだと知っているので、いつもよりたっぷりと供される栄養満点な心づくしの手料理を僕はいつもより多めに食べるよう努力する。苦しくて胃薬が必要になる事もあってその度に呆れられるけれど、呆れた表情の裏に見え隠れする嬉しさと幸せの入り混じったような表情を見るだけで、その苦しさすらも僕には幸せの証となってしまう。
 まったく、人に指摘されるまでもなく救いがたいほどに溺れてる。
 今手にしている幸運に。盲目の恋に。ワカという存在に。
 僕にとっては実に残念な事に、ワカは先にお風呂に入っていたらしい。灰色とピンクのだぼっとしたボーダーシャツに灰色のハーフパンツ姿のワカの肌が、ほんのりと上気していた。
 ああ、だめだ。ただでさえ僕の中のワカ成分が足りてないってのに、今のこの状態でこんなワカを見てどうして理性が保てるというのだろう。
 靴を脱ぎ、玄関から一歩上がったところに鞄を置いて、空いた両手でワカをぎゅっと抱きしめる。時差なく僕へと馴染むワカの身体と牛乳石鹸の香り交じりの体臭がどうしようもなく僕を安堵させる。ああ、家に帰ってきたんだと、強く実感する。
「んー、どうしたの? やたら疲れてるみたいだねぇ。お酒飲まされちゃった?」
 くすくすと笑いながらハグを返してくれるワカの肩に顔を押し付けたまま、僕はゆるく首を振る。くすぐったいよーと笑うワカの声が、僕の中にこびりついていた不快な声を少しずつ洗い流してくれる。
「ワカ、お風呂すぐに入れる?」
「もちろん。あたしに抜かりはないですよ」
「じゃあ、風呂入る。でも、ちょっと気力とワカが足りないから一人だと溺れるかも」
 ゆっくりと身体を持ち上げてワカの顔を見ながら素直に弱音を吐き出すと、彼女は心配げに僕の顔を覗き込んだ。
「もしかしてちょっと深刻? 何か嫌な事あった?」
「話すからさ、お風呂、一緒に入ってくれない?」
「あたしもう入ったんだけどなー……」
 ほんのりと、お風呂上りだからだけじゃなく頬を染めるワカに、僕はまた擦り寄ると意識的に囁きかける。
「うん、わかってる。僕がワカを洗えないのは残念だけど、ワカは僕を洗えるよ?」
「洗えるよって、洗って欲しいんでしょう? ったく、どうしてこんな甘えん坊になったかなぁ」
 そんなの決まってる。ワカが僕を甘やかしてくれるからだ。答えのわかりきっている、それも全然愚痴になってない愚痴を口にしながら、ワカはまるで大型犬にでもするように、両手で僕の耳の後ろから後頭部にかけてをくしゃくしゃとかき混ぜる。そうしてもう一度僕の顔を覗き込んだワカは、僕の表情に何かを見つけたらしく、ちゅ、と音を立てて唇にキスを一つ落とすと、甘く優しく微笑んだ。
「仕方がないね。お風呂、付き合ってあげる」
 もちろん僕に否やがあるはずもなく。こくりと頷いて、手を引かれるままにバスルームへと向った。
 ネクタイをしゅるりと抜き取り、ワイシャツのボタンを一つ一つ外していくワカの指先をじっと見つめる。
 理法療法士をしているワカの爪はいつも綺麗に切り揃えられている。水も使うし共同とはいえ家事も普通にこなすから、季節によっては手あれやあかぎれを起こす事もあるけれど、寒くないこの季節はハンドクリームの効用もあって、とても滑らかで柔らかい。その指に触れてもらうのが、僕はどうしようもなく好きだ。
 ボタンを外し終え、シャツを脱がせるワカの手にも顔にも僕が期待するような色はない。まあ、病院で日常的に介助をしたりしているのだから男の裸の一つや二つ今更恥じらいの対象にもならないのかもしれないのだけれど、僕にぐらいは少し何か反応を見せて欲しいような気もする。……まあ、ワカからすれば平静を保って見せる事で恥ずかしさを隠しているだけなのかもしれないけれど。
「えーと、克己、下は……」
「ワカに脱がせてほしいな」
「うー……甘ったれめ」
 つん、と唇を尖らせて僕を睨むその目の縁がほんのりと赤い。上の服を脱がせるのはよくても、下の服を脱がせるのにはやっぱり若干の抵抗があるらしい。まあ、脱がせてもらう時は毎回同じようなやり取りを交わしているのだけれど、変わらないワカにほんの少し嬉しくなる。
「ワカ、駄目?」
「……駄目じゃ、ないけどさ……」
 恥ずかしいんだってば、馬鹿。そんな悪態を吐いて、やけくそのようにベルトのバックルに手を伸ばす。そうしてあっという間に留め具を外すと、勢いよくベルトを抜き取ってしまう。さすがにこんな事までは仕事ではしないだろうから、ワカの手馴れ具合はイコール僕との関係の深さと長さの証って事になるわけで。……ああ、駄目だ。嬉しい気持ちが強すぎる。
「克己ぃ、ねえ、これどういう羞恥プレイなの……?」
 僕らの家に帰ってきてワカの姿を目にした時からすでに反応を示していたそこは、今のですっかり元気になってズボンの前立てをあからさまに押し上げている。さすがにそれを自覚してしまうと、僕も人並みの羞恥心を持ってるからにはちょっとばかし恥ずかしくなってしまう。
「えーと……うん、ごめん。でも、いつもの事じゃない。僕はいつだってワカの事を欲しがってるんだから」
「……それはまあ、あたしも一緒だけどさ……」
 ぶつぶつと、何やら僕を嬉しくさせるような言葉を口にしながら、どうしようかと踏ん切りのつかない様子で彼女はふよふよと視線を彷徨わせる。あんまりに可愛らしいワカの姿に僕は破顔して、動けずにいるワカに代わって手を伸ばした。
 ワカの着ている、ボーダーのシャツの裾へ。
「ちょ、克己!?」
「ワカも脱ぐんでしょう? 大丈夫。僕はちゃんと、上も下も脱がせてあげるよ」
 にっこりと笑いながら両手をワカのシャツの下に潜らせ素肌の腰へと置く。どうやらこんな行動は想定外だったようで、顔を真っ赤にして呆然と僕を見上げるその額と頬、それから鼻の先っぽと唇にバードキスを落としながら滑らかで弛みのないわき腹をゆっくりと撫で上げた。当然邪魔者のシャツは僕の手に引っかかって上に持ち上がるわけで、ぎりぎり割れてはいないけれど平らに引き締まった腹部がお目見えする。
「やっ、ん、駄目だってば……うんっ!」
「駄目って、何が? ワカの声も顔も、言葉とは逆の事言ってるよ?」
 肋骨のラインを擽られるのが苦手だと知っているから、僕はそこを親指で丹念になぞる。それだけでふるふると身体を震わせるワカの肩にまた顔を埋めて、さっきまでとは異なる種類の甘い香りを放ち始めた首筋に鼻を擦り付ける。ワカは首筋も弱点だから、こんな風にすれば僕にしがみつくしかなくなってしまうのだ。
 そして、今夜も僕の卑怯な策略はちゃんと成功した。
 お風呂の後なのにわざわざ着け直していたブラのホックを外し、柔らかな胸を両手で包みこむ。僕の裸の肩に唇を寄せて声を抑えるワカの首に舌を這わせると、手のひらをつんと硬い感触がつついた。手のひらにも性感帯はあるのだと僕が知ったのは、ワカにこんな風に触れるようになってからだ。ワカの胸の先端が触れるか触れないかのぎりぎりのところでくるくると回していると、そこらからぞくぞくとした感触が僕の肩から背中を通って腰の奥へと伝わっていく。もちろん、触れているのが他の部分であっても、ワカの感触ってだけで僕をどうしようもなく掻き立てる事に違いはないのだけれど。
 もうやだ、と半泣きの声で訴えられてようやく、僕はごめんねと謝罪の言葉を口にしながらワカから身体を離し、彼女のシャツとブラを一緒くたにして脱がせた。
 二人とも上半身裸になった状態で自然に抱きしめあう。ぎゅっと強くワカを引き付けると、僕の情けない部分がワカのお腹をぐいと押すのがわかる。こんな事は初めてでなんかあるはずないのにうなじを真っ赤に染める様子を見ていると、僕の胸の中にはワカへの愛しさがどうしようもなく溢れ出す。
「ワカは、前だけ外してくれたら良いよ。そしたら僕がワカを脱がせて、その後で自分でも脱ぐからさ」
「うー……」
「いいでしょう? 僕はワカに世話を焼いてもらうのも大好きだけど、ワカの世話を焼くのも同じくらい好きなんだから」
 これは本当。僕がワカにしてあげられる事はあんまりないけれど、たまにワカが甘えてくれる時があって、それが僕にとっての至福の瞬間だ。それが主にこういう時を示してるってのは、まあ、あんまり追及しないでもらえると助かる。