かぶ

君だけの僕 ― はじまりは、春 04 ―

 潤んだ目でじっとりと僕を睨みつけていたワカは、むぅと唇をまた尖らせると唐突に僕の胸をぐいと手で押して身体を引き離した。え、と僕が戸惑っている間にさっと残りの衣服を脱ぎ捨て、くるりと僕に背を向ける。
「ワカ?」
「でも、今はあたしに世話してほしいんでしょう? なら変な事してないで、さっさとお風呂に入んなよ。こんなところでじっとしてたんじゃ、身体冷えちゃうでしょ」
 振り向く事なく言い切って、ワカはすりガラスのドアの向こうにあっという間に消えてしまう。僕が脱がせたかったのにと未練たらしくため息を吐いて、僕もワカを追いかけて風呂場へと足を踏み入れた。
 バスタブの前にしゃがんで洗面器でお湯をかき混ぜるワカの背中はすっきりと伸びている。季節柄もあってまだ日に焼けていない背中に手と唇を這わせたい衝動に駈られるけれど、ここはじっと我慢する。
「ワカ、どうすればいい?」
「んー、そこの椅子に座って。……前はちゃんと隠しなさいよ」
「……隠す、努力はするけどさ。たぶんあんまり隠れてくれないよ」
 外では草食だとかなんとか言われている僕だけど、よりちゃんの彼氏の悪友氏(山上に雰囲気が似ている彼の事だ)によるとただの内弁慶外地蔵で、超グルメで偏食な肉食なんだそうだ。
 つまるところ、ワカという美味しいものを知ってしまったがために他の女性にはまったく食指が動かない。だけどやっぱり僕も健康な成人男性でそういう欲求はきちんと持っているものだから、ご馳走=ワカが目の前にいると常に欲しがってしまうんだとか。
 ちなみに山上の言では、僕のような人間は単なる超志向性むっつりなんだそうだ。どちらも実に言い得て妙で、そういう事なのかと素直に納得してしまった。
 で、何が言いたいのかといえば、ただでさえ常にワカ欠乏症な僕なのに、今日は知らない女性に絡まれたおかげで僕の中のワカを求める心が暴走気味なのだ。ついでに僕の浅ましい一部もワカを前にして以来ずっと暴走が収まらない。
 こんな事もまあ、ぶっちゃけてしまうといつもとあまり変わらない事なのだけれど、ワカはあんまり慣れない。いや、開き直るとどこまでも事務的に対処してくれるので慣れていないわけじゃないとは思うんだけど、羞恥心はあまり薄れないらしい。そんなところがとても可愛いと思う。
 まあ、さすがに僕自身、あんまり元気が過ぎるその部分を無闇に晒し続けるのもちょっとアレなので、腰のあたりにタオルをかける。うん、案の定、あんまり隠した意味がない感じではあるけれど、直接見えるのとタオルに隠れているのでは隠れてる方がマシだよね。
 そんな事をつらつらと考えていると、唐突に背中から温かなお湯を掛けられた。
「わ!」
「ぼーっとしてるからでしょ。ちゃんと声は掛けたよ」
 僕の背中の後ろから、くすくすと笑うワカの声がする。お風呂場独特の音響効果で、いつもより甘く柔らかく耳に届くのが心地いい。繰り返し掛けられるお湯の暖かさとワカの声のあたたかさで、僕の中から疲れや緊張や嫌な気持ちなんてものが、だくだくと溶けて流れ落ちていく。
「じゃあ、頭下げて目ぇ瞑ってねー。お湯掛けるよー」
「うん」
 言われたとおりに頭を下げて目を瞑る。ついでに息も止めたところで、ざばーっと頭の上からお湯が降ってきた。そのままじっとしていると、ふわりとシャンプーの香料が香ってワカの指が僕の髪と頭の地肌を洗いはじめる。人に髪を洗われるのがとても気持ちいいのだと、僕はワカのおかげで知った。というか、世界に存在するいい事のほとんど全てを、僕はワカを通して知ってきた。
 髪を洗った後は身体の番だ。ワカが僕がいつも使っている身体洗い用のタオルに牛乳石鹸を泡立てて、まずは背中を洗ってくれる。時々ワカの指が、もう痛くなくなって久しい部分を癒すように撫でてくれるのが嬉しくて、好きだ。背中を洗った後は僕がワカの方を向いて、身体の前面を洗ってもらう。とは言っても胸からお腹までの範囲だけで、腰から下は自分で洗わなきゃならない。というよりも、さすがにそこまで洗われてしまったらとっても情けない事になるのは必定なので、本当に疲れ果てている時と、二人ともがそういう気分になっている時以外は遠慮している。
 今夜は、僕はいつも以上に盛っているけれどワカがいつもどおりなので、たぶん駄目だろう。残念。
 ちなみにワカに身体を洗ってもらっている間、まあ腕を洗ってもらう時だけは別だけど、僕の手は基本的に膝の上で行儀良くしている。本当はワカに触れたくてうずうずしているのだけれど、それを実行してしまうと頭からお湯を掛けられたあげく、一晩お預けを食らってしまうのだ。
「……うー、もう、なんでこんなに元気なの……?」
 お風呂にいるからだけじゃない理由で顔を真っ赤に染めて、お腹のあたりを洗ってくれてたワカが唇を尖らせる。うん、ごめん。やっぱ身体を洗うには、ソレは邪魔だよね。
「え、なんでって、ワカが目の前にいるし。しかも裸だし」
「疲れてるって言ったのはどこの誰?」
「ここの僕だよ。だけどさ、ワカ。やっぱそれとこれとは別だよ。ワカだって言うでしょ? 甘いものは別腹って。それと一緒」
「えー……」
 なんだか全然納得できていない風情のワカに、僕は更に笑みを深めて説得の言葉を重ねる。
「僕にとってのワカは、ワカたちにとっての甘いもの以上の大好物なんだ。だけどワカはこの世に一人しかいないから、外じゃ絶対に補充できない。だからいつでも飢えていて、実物のワカを目の前にしちゃうともう辛抱なんてできなくなっちゃう。だからね、仕方がないんだ」
「そりゃ、さ。克己があたし以外駄目なのはちゃんと知ってるけど……」
「なら、諦めてよ。僕はもう開き直ってるんだし」
「そこは開き直るんじゃなくて忍耐力を鍛えるとかさぁ……」
「わーか」
 ぐずぐずと、これまで何度も繰り返してきた言葉のやり取りを再開しようとするワカの唇を、僕は軽く啄ばむ。
「僕にワカを求めるなってのは、僕に息をするなってのと一緒だよ。ワカを補給できなくなったら僕、きっと一日と持たずに死んじゃう。だからさ、諦めて、僕を哀れに思って……慰めて、やってくれない? このままじゃ、ワカの事しか考えられなくて、まともに話もできないよ」
 意図的に声を低くして耳元に囁きかける。ひくんと背中を震わせたワカに、僕は最後の駄目押しを放った。
「手で、してくれたらいいよ。恥ずかしいなら、僕にしがみついていてもいいから……ね?」
 うーうーと、短くない時間逡巡したワカは、やっぱりためらいを残しながらも、最後に一つ、こくりと頷いてくれた。
 ワカの手が僕の腰からタオルを外し、真っ赤に染まった顔を僕の肩に埋める。かわいい、ワカ、と耳元に囁けば、馬鹿、と掠れた声が返す。浴室の温度とこれからの行為に対する羞恥から熱くなった手がやんわりと僕を包み込んだそれだけで、僕の全身を電流にも似た衝撃が駆け巡る。膝の上で握り締めていた拳をゆっくりと開き、ワカの細い腰から背中へとそっと回す。
「克己、手出しは……」
「しないよ。ただ、君にしがみつく準備をしただけだ」
 疑わしげな視線を向けてくるワカに、僕は堪らず苦笑を漏らす。
「本音を言うと、今すぐにでもワカに触れて、ワカを気持ちよくして、二人で一緒に交じり合いたいよ? だけどそれをしちゃうとワカは完全にのぼせてしまう。そうなったら僕は今夜あった事を話せなくなるし、ワカだって約束を破った僕を怒って今晩一晩口も聞いてくれなくなるだろう? だから僕は、可能な限り行儀よくしようとがんばってるんだ」
 だからこれくらい許してよ。
 甘えた声を出して、困り顔を作ってワカを見つめる。こうすればワカは、深いため息一つと共に仕方がないと諦めてくれるのだ。
「……もう、本当に、手でするだけだからね」
「うん、わかってる。……ね、ワカ、お願いだから焦らさないで。このままじゃ生殺しだよ」
 絶妙な力加減で握られたままなのが辛くて、椅子に乗せたままの腰をほんの少し揺する。僕の動きと動かないワカの手によって生み出された刺激は、僕に情けない声を上げさせるに十分すぎて、さっき口実にした事を、早速実行するハメに陥ってしまう。まあ、こういう墓穴ならいくらでも掘るし、自縄自縛というのならばいくら縛られてもいいのだけれど。
 切羽詰った僕の様子を哀れに思ったのだろう。ワカは本当にもう、とため息を吐くと、左腕を僕の背中に回し、右手だけで僕を愛撫しはじめる。本人が何を言おうとどう考えようと、ワカは僕の扱いにすっかり慣れている。おかげで彼女の手の動きは常に的確で、僕をあっという間に追い詰めてしまうのだ。
「ね、克己。すぐに終わった方がいい?」
 追い詰められているのはこっちのはずなのに、なぜか切羽詰ったような声で問いかけてくるワカに、僕ははっきりと一つ頷いた。早漏だと呼びたいなら呼べばいい。そもそも盛っている状態の僕がワカの手にかかって長く保てたためしがないんだ。何よりあまり長いと、それはそれでワカを疲れさせてしまう。そんなくらいなら笑われる方が僕はいい。……まあ、ワカは僕を笑うなんてしないけど。
 僕の反応を確認して、ワカは再び僕の肩に顔を埋める。何物にも守られていない首筋に時折唇を落としたり舌で触れたりしながらワカは僕に触れる手の動きを早める。無理に堪える必要もないのだからと僕は素直に快楽へと全身を委ねる。
 ほとんど抱き合うような形になっているせいでワカの柔らかな身体は意識せずとも僕と密着していて、その柔らかさに僕はうっとりと酔う。ワカが、ワカだけが、僕をこんな風にする。ワカだけに、ワカのためだけに、僕は雄になる。
「ワカ、ああ、いいよ……。そう、そこだ……ああ、ワカ、若菜、若菜……っ!」
 何とかの一つ覚え状態でワカの名前だけを口にしながら、まぶたの裏が真っ白になるような、頭の中で何かが弾け散るような爽快感の中で、僕はあっけなく達した。