君だけの僕 ― はじまりは、春 05 ―
安心しきったように全身を預けてくれるワカの肌の感触を楽しみながら、僕はその日あった事を淡々と、まさしく理工系とからかわれがちな簡潔さでもって説明する。
今年の新入社員らしい女性の一人がどうやら僕に関心を持っているようで、やたらめったら絡まれた、茶髪のふわふわの髪にきらきらのメイクをしてひらひらの服を着て甘ったるい臭いをさせていて、僕が彼女を少しでも避けるために山上を盾にしようとしているのに気づこうともせず自分アピールばかりしてきたのだ、と。
そんな苦々しいばかりの報告に対するワカの反応は、苦笑交じりの一言に尽きた。
「あー、そっか。また出てきたか」
「うん、また。常々思うんだけど、なんでああいった人たちは僕に目を付けるんだろう? ワカはさ、昔から一緒にいるし、僕がワカがいないと駄目だって知ってくれてるからだろうってわかるんだけど」
「あたしが克己を好きなのはそれだけじゃないけどね」
苦笑を深めて振り返りざま見上げてくるワカの眉にちゅ、とキスをする。ふわりとはにかむその顔を見るだけで、思い出した嫌な事に曇っていた胸の内がすっきりと晴れた。
「うん、それはわかってる。でもさ、本当にわからないんだ。どうして僕なんかに彼女らが興味を持つのか。だって僕は特別見た目がいいわけでもないし、話が上手いわけでもない。第一僕はワカがいるってどこでもはっきり示してるし、口にしてる。だから望みなんてあるはずないとわかるはずなのに……本当に、なんでなんだろう」
心底から途方に暮れて、僕はワカの肩に顔を伏せる。ふ、と笑む気配がして、ワカがすりと僕の頭に頬を寄せる。こうして寄り添いあっているだけで、僕は十分すぎるほどに幸せになれる。ワカとこうしている時が僕にとっては至福の時で、何より大切だ。
「克己、さ。本気で克己を好きになる子たちが何を考えているか、知りたいって思ってる? それともまたぐるぐるしてるだけ?」
「……ワカにはわかるの?」
「なんとなく、だけどね」
「だったら、知りたい。知っておけば、対策できるかもしれないし」
「うーん、どうだろう。正直これ、克己の何が悪いってわけじゃないっぽいからなぁ……」
溜め息を吐いて天井を見上げるワカに、これはきちんと聞かなければと僕は背筋を正す。そして膝の上のワカを横抱きに近い形に抱き直し、顔を合わせやすくする。
「克己はさ、はたからだといつでも泰然自若としていて冷静沈着に見えるんだ。話し方も穏やかで乱暴なところはないし、さりげない気配りはできるし。何より女の子に対してがつがつしてないでしょ? まあ、あたしっていう例外は確かにいるけど、それ以外の子には本当にそっけないくらいだし」
「それが駄目なの?」
「駄目じゃない。あたしは正直、克己があたしだけに反応してくれるのは嬉しいし、かなり優越感だし。――うん、結局のところはそういう事なんだよね。さっき克己は自分がかっこよくないとか話が上手くないとか言ってたけど、彼女らからするとさ、そんな克己の中に魅力を見出せた自分ってすごい、って感じの妙な優越感があるんじゃないかな。それにさ、これまでに克己を好きだって言ってきた子たちってさ、ちょっと甘えた感じで、依存心高めだったでしょ? そういう子たちの目にはね、ボディガードの時のケビン・コスナーみたな、寡黙で近寄りがたいけれど本当は優しくて頼りがいがあって甘やかしてくれて、いざという時には全力で守ってくれそうな人に見えてるんだと思う。もしかすると、表に見せないだけで実は情熱的、みたいな夢も見てるかも」
ま、あたしはそれが事実だって知ってるけどね。そう笑って結論付けるワカに、やっぱり僕は理解ができないと首を振る。
「だけどワカ。僕が優しくするのも甘やかすのも守るのも情熱的になるのも、全部ワカに対してだけだよ?」
「うん、克己はそうだよね。けどね、ここで彼女たちの自信過剰が問題になるの。……ほら、前にもいたじゃない。あたし程度の女からなら克己を奪う事なんて簡単とか言い放ってくれたのが」
「――ああ」
あれは……あの時は、僕が生まれて初めて本気でキレた。何しろ名前も顔も覚えていないその人間は、僕の目の前でワカを侮辱したのだ。それも、まったくの思い込みから発せられた理解不能な言葉の数々に、僕は目の前が真っ赤になる程の怒りというものをこの身で味わった。
ぎりぎりのところで僕が暴力を振らずにいれたのは、そんな言葉をぶつけられても毅然として対峙していたワカの横顔と、痛いほどの強さで僕の手を握り締めていたワカの手があったからだ。あそこで僕が理性を手放していたとしたら、ワカはきっとその事で自分を責めただろう。僕をそんな衝動に駆り立てる原因となった自分を責めて、もっと傷ついていただろう。あの時あの場所でそう気づけたからこそ、僕はともすれば爆発しそうな感情を抑え込み、いたって冷静に状況に片を付けた。はっきりきっぱりと、その存在を僕の中から切り捨てる形で。
「これまでの人生で、多分女としての特権をフルに活用して生きてきたんじゃないのかな。だから自分が拒否されるかもしれないなんて考えない。他に恋人がいても、克己みたいな若いのに冴えないリーマンなら、自分がコナをかけたらひょろひょろ靡くとか思ってるのかも」
「――ありえない。今日だってあの声も臭いも喋り方も、何から何までが癇に障ってたのに」
苦虫を噛み潰しながら言い切れば、ワカの顔が僅かに曇る。
「そんなに駄目だった?」
「……顔とかは見てないし、覚えてない。けど……」
ゆっくりと息を吸い込む。浴室のあたためられた湿気たっぷりの空気を吸い込んだはずなのに、肺に至るまでのどこかでそれは、凍りつくような冷たいものへと変化する。
「なんだか、似てた、ような気がしたんだ」
「克己……」
ぎりぎりのところで搾り出した声に、今度こそワカがはっきりと心配を表情に出す。
あの声もあの臭いも喋り方も何から何までが、僕が無理やりなかった事にした過去を呼び覚まさせる。時代も年代も違うのだから同じところなんてないはずなのに、ホラー映画でよくある硬く閉ざされた扉を尖った爪で引っかいてこじ開けようとする時のあの薄気味の悪い耳障りな音が全身を這い回るような、そんな嫌悪感がそろそろと僕を支配しようとしていた。
だからこそ僕は徹底してその人を見なかったのだし、極力会話を成立させようともしなかった。人の心の機微に鋭い山上ははっきり気づいていて僕の味方をしてくれていたから、まだ堪えていられた。もし彼がいなかったなら、きっと僕は一言声をかけられた時点で、なりふり構わず店を飛び出してワカの下へと帰ってきていただろう。
暖かいはずのお湯さえもが冷たく感じられて、無意識に身体がぶるりと震える。そんな僕の頬に、こめかみに、額に、目に、鼻に、そして唇にキスを落として、ワカは自分の身体で僕を暖めようとでもするかのように抱きしめてくれた。
「大丈夫。克己にはあたしがいるんだし、みんなだっている。どうしてもだめなら先生に言って診断書書いてもらえばいいし、いざとなったら究極の手段に頼ればいい」
いつだってワカは、弱い僕をそれでも全面的に肯定してくれる。駄目なら逃げていいって、赦してくれる。
自分でもわかりやすいと思うけど、たったこれだけで全身を満たしていた冷たいものが緩やかに消えていく。身体の力を抜いてほっと息を吐き、僕はこの世で一番大切な名前を口にした。
「若菜」
それだけで、ワカには僕が何を望んでいるのかが正しく伝わる。
頼り甲斐があって優しくて甘やかしてくれる人、それは僕じゃない。ワカだ。いつでも、どこでも、どんな時でも、ワカは僕の本質を見てくれる。僕が必要としている最適な解決策を与えてくれる。
「……そろそろ出よう? スーツ、皺になっちゃうけどいいよね?」
穏やかに微笑んでワカが立ち上がる。導かれるままに浴槽から出て、二人で一枚のバスタオルを分け合うようにして身体を拭きあった。
さっきのぞっとするような感情に対する反動なのか、僕の中ではワカへの渇望が暴れだしそうになっていた。だけど一度ワカに開放してもらったからだけじゃない理由で、僕はとても穏やかだった。それはワカも同じ。
ただただお互いを愛するために、慈しむために、癒すために、僕らは身体が疲れ果ててぴくりとも動けなくなるまで、お互いにお互いを与えつくした。曙光が大地を生命で満たすように、僕らの心はあたたかでやわらかでおだやかなものに満たされて、そうしてようやく眠りに就いた。