かぶ

君だけの僕 ― 夕立は嵐の前触れ 01 ―

 僕が勤めている会社は日本でも有数の総合商社からIT化の波に乗って独立した子会社で、主に系列グループで使うためのシステムを手がけている。どんなシステムを作っているのかという例を挙げると、出退勤管理や給与管理ソフトウェアにはじまり、流通を管理するための発注から納品までを一括管理するためのシステムなど、求められたものは何でも作っている感じだ。
 最近の仕事はといえば、いい加減古くて使いづらくなっていた流通システムをほとんど一から作り直すというものだった。
 というのも、旧システムが作られたのはもう五年以上も前の事で、当時のパソコンスペックにあわせて作られていたため、黒画面に表示される命令をいちいちキーボードで打ち込んで操作するなどという、もういっそ時代遅れも甚だしいものだったのだ。
 しかもベースにしたデータベースも古すぎてどうにも使いづらく、Windows7(初期の想定ではVistaだったのだけれど)にわざわざ対応させるくらいならいっそ一から作り直してしまえという上層部の判断により、僕らは旧時代の化石にも近いシステムがどうやって作られたのかの解析に始まって、関係部署の要望を聞いて回ったり、外部設計や内部設計と呼ばれる実に面倒くさい、けれどシステム開発の根幹を成す作業を行い、あちこちの承認を得た上で実際のプログラミング&実行テストという作業をほぼ二年にわたって行ってきていたのだ。
 それがようやく組みあがり、系列のごく一部で導入テストをするのに平行して実際に使う人たちの教育を一ヶ月に亘って行った挙句、ようやくこの四月に稼動を開始した。
 ……のだけれど、作り上げたらそこで終わりといえないのがシステム開発の悲しいところだ。
 どんなにがんばっていい物を作っても、人間というものは更にいいものを求める性を持つ。それに人間が完璧なものを作る事なんてほとんど不可能だから、導入されてしばらくの間は不具合がぼろぼろと出てくるわけで、春先から初夏にかけてはもう本当に目が回るような忙しさってのを身をもって味わっていた。
 特に僕は高専出身だし、学生をしていた当時から個人でちょっとしたソフトウェア開発をしていたという経歴もあって、学校の授業でプログラミングを習い、社会で実践を始めたような人たちに比べれば経験も知識もある。おかげで役職的なものは持たないまでも任される作業の内容は同期や数年先輩な人たちに比べるとかなりレベルが高く、与えられる作業の量も膨大で、本当に馬車馬のように働いていたのだ。
 それも六月末の大規模なアップデートで大方の不具合は潰せたし、即時対応を求められるような致命的な欠陥でも見つからない限りは多数の手が必要になる事もない。
 加えて新人研修がようやく終わった新入社員たちのOJT(いわゆる現場研修)がはじまるため、新流通システム開発チームを一度解散し、何かと後回しにされてきた小規模なプロジェクトをいくつか始める事になった。
 そんな風潮の中でも僕は少しばかり特殊な立ち位置にあった。
 前述のとおり、僕はいわゆる上流過程から下流過程まで通して一人でほとんどなんでもできてしまう。情報収集も怠らないから日々発表される新しい技術についても一通り目を通しているので、訊かれれば大抵の事には答えられる。よく言えば万能だけれど悪く言えば器用貧乏なのだ。そして、会社という機構にとっては実に使い勝手のいい歯車でもある。故に僕は、どこか一つのプロジェクトに関わるのではなく、必要に応じてあちこちに手を貸すという、正に便利屋的なポジションに落ち着いた。
 こんな風に言ってしまうとあまりいいポジションではないように思えるかもしれない。けれど出世には大して興味を持っていない僕からすれば、自分の裁量とペースで仕事を進める事のできるこのポジションは、実に望ましいものだった。
 けれど想定外だったのは「他人に教える」事に慣れていない新人教育メンバーに、やたらめったら頼られてしまうようになった事だ。そりゃあもう、辞書かサーチエンジンかな扱いで、説明の言葉に詰まるたびに新人と一緒に僕のデスクまでやってきては疑問に対する解を求めるのだ。……まったく、最低でも五年以上はシステム開発に従事してるってのに、どうして説明一つできないんだろう。コピー&ペースト世代ってわけでもないはずなのに、まったく嘆かわしい。
 とはいえ、彼らが僕を頼ってくるのは大抵が説明しづらい内容のため、僕もそんなには煩わしく思わない。やっぱり僕より先輩っていう矜持もあるのだろう。
 それでも問題がゼロってわけじゃない。一人だけ、どうにもやりづらい相手がいた。
「あのー、宗谷さん。今お時間よろしいですかぁ?」
 その甘ったるい声に、またか、という言葉がほとんど反射的に頭に浮かぶ。それでも無視するわけにはいかないから、とりあえずきりいいところまで作業を終えてファイルを保存すると、僕は椅子ごと声の主を振り返った。
「何?」
「Javaの課題なんですけどぉ、なんだかよくわからなくて……教えてもらえませんかぁ?」
 困ってるんです、とわざとらしいまでに顔に書きなぐっている彼女は、複数枚のプリントを差し出してくる。そこには数問の、大して複雑でもないエクササイズが記されていた。
「……どれがわからないって?」
「ええと……これ、なんですけどぉ」
 ただでさえ語尾を延ばす話し方が神経に障るってのに、課題を僕に見せるためだろう、ずずいと身体を近寄せられて、僕は思いっきり顔を顰めて椅子ごと距離を取った。さすがにそれには気づいたのだろう、僅かに傷ついたような顔になりつつも、彼女は気にしない振りで続けた。
「この問題の条件式がどうしてもわからなくて……」
「わからないって、何が、どう。というか、これくらい佐々木さんに訊けばすぐに教えてもらえるんじゃないの?」
「えー、でも、自分で考えろって突き放されるんです。それでどうしようもなくて、宗谷さんなら助けてくれるんじゃないかなって思って」
 何で僕が、そう言いそうになるのをぎりぎりで抑える。代わりに苦々しく息を吐き出すと、もう一度示されている例題へと視線を走らせた。……走らせて、佐々木さんが突き放した理由を嫌というほど実感した。
「……君さ、大学四年、行ったんだよね」
「はい! それが何か?」
「なのに、こんな単純な読解もできないの? 必要要素は全部書き出されてる。佐々木さんが自分で考えろって言ったのも当然だよ。教える必要性がまったく見出せない。むしろこれっぽっちも理解できないようじゃ実際の仕事には使えない」
「っ――」
 今度こそはっきりと傷ついた顔になる彼女に、自分自身でも呆れがまざまざと表れているだろう視線を向ける。ふと目に留まった社員証の名前を認めた瞬間、意識するより先に言っていた。
「風間さんさ、いっその事コノザマさんに改名したらどう? 名が体を表してちょうどいいんじゃない?」
 瞬間、周囲がまるで瞬間冷凍されたかのようにしんと静まり返った。それでも「しまった」と思ったのは一瞬だった。確かに言い方は若干きつかったかもしれないけれど、何も間違った事は言っていないはずだ。
 静寂を破ったのは、堪えきれなくなったらしい山上の爆笑だった。
「コ、コノザマ……! ちょ、宗谷お前それ上手すぎ。某毒舌芸人にも負けてねぇ……!」
 自分のデスクをばんばん叩きながら腹を抱えるその様子に周りの人たちも緊張を解かれたらしい。一人、二人と笑う人数が増えて、気がついた時には周辺の島を巻き込んで笑いの渦が広がっていた。
 その中で笑っていないのは、失言してしまった僕と、ネタにされている当の本人だけで。
「あー……すまんな、宗谷。うちのコノザマが迷惑かけた」
 くっくっく、と喉の奥で笑いながらやってきた佐々木さんにいえ、と首を振る。それを見てほんの少し安堵を浮かべた佐々木さんは、自分が担当する新人の女性へと視線を向けると、どことなく険のある表情で告げた。
「ほらコノ――じゃない、風間。さっさと自分のデスクに戻れ。あと俺を飛ばして宗谷に行くな。宗谷はお前の教育係じゃない。お前のその行動は俺をないがしろにしてるも同然だ」
 はっとして佐々木さんを振り返った彼女は、さすがに後ろめたい表情になる。
「あの、あたしそんなつもりじゃ……」
「そっちにはそんなつもりがないのかもしれない。けどな、一日に二度、三度とやられるんじゃまるで俺じゃ頼りにならないから宗谷を頼ってるように思っても仕方ないだろ」
「でも三宅さん、何も教えてくれないじゃないですか。だからあたし……」
「俺としては必要な事は教えてるつもりだ。幼稚園児でもあるまいし、書かれてる内容まで噛んで含んで説明しなきゃならんとは思ってない。それがどうしても不満なら、二宮さんに言って教育係を変えてもらうんだな。ただし、宗谷があたるなんて考えるなよ。そいつはまだ三年目だ。うちの社内規定で新人教育は五年目以上って決まってる。いくら宗谷が俺より有能でも、年数がモノを言うんだよ。諦めな」
 甘ったれた反論に佐々木さんがぴしりと返す。標準体型よりもほんの少しばかりぽっちゃりしている佐々木さんは、いつも笑顔を浮かべている穏やかな人で、めったに声を荒げたり他人を非難する事はない。そんな人でもやっぱり堪えかねる事はあるのだろう。
 ぐっと詰まった新人に向けられる視線に含まれているのは呆れが大半で、同情を含むものは僕の見る範囲には一つとしてなかった。僕としても彼女に対して同情なんて抱くはずもなく、むしろいつまでもそこにいられても邪魔なので、その旨を告げさせていただく事にした。
「そこにいられると作業できないんだ。自分の席に戻ってくれないかな」
「……はい」
 打ちひしがれつつ戻るその後姿に、さすがに言い方がきつすぎただろうかと一瞬考える。けれど仕事の邪魔をされた事に代わりはないし、他の言い方も思いつかなかったので、まあいいかと結論付ける事にした。