かぶ

君だけの僕 ― 夕立は嵐の前触れ 02 ―

 スーツのジャケットの胸ポケットで、ぶぶぶぶと独特のリズムで携帯電話が振動する。着信音だけでなくバイブの種類も人によって使い分けているおかげで、一定の時間それを感じていれば誰からかかってきたものか、着信なのかメールなのかを大まかに判断する事ができる。
 数秒じっとして振動を感じていた僕は、無意識に口元が緩むのを感じる。ワカからのメールだ。
 ちらりと周囲を窺って取り出した携帯の画面には、やはりワカの名前とメール受信のアイコンが表示されていた。けれどその幸福感も指先の操作でメール本文を見るまでの事だった。
 ワカとやりとりするメールの内容はいつも簡潔だ。最低限必要な言葉のやり取りだけだから、実にそっけない一言メールの応酬だ。なのに今日は少しばかり様子が違っていた。
『明日からの技術研修に行くはずだった先輩が怪我をしてしまって、欠員補充であたしが行く事になっちゃった。おかげで明日は朝七時に品川だって。一応帰れるけど遅くなっちゃうみたい……』
 しくしくと泣いている絵文字と共に送られてきたそのメールを見て、僕は意識しない内にため息を吐いてしまっていた。それを耳ざとく聞きつけたらしい山上が、対面の席からモニタ越しに心配げな顔を見せた。それからちらりと時計と二宮課長代理の席へと視線を向けると、視線で抜け出そうぜと示してくる。
 ワカの事でいっぱいになってしまった頭では作業が捗るはずがなく、気分転換も兼ねて付き合う事にした。
 社内では周囲の耳目があるしという事で、ビルの外にあるコンビニにまで足を伸ばす。冷房に晒され続けている身体にとって、梅雨明けの晴天が与える熱は恵みだ。けれどそれは本当に束の間の事で、数分も経たない内に災いとなる。まったく、照り返す日差しだけでも暑いのに、街路樹にへばりついてわめきたてるセミのおかげで気温が二度くらい高く感じられてしまう。
 じわりと滲んでくる汗を拭いながらも気になっていたのだろう、山上がさりげない調子で訊ねてきた。
「さっきのメール、不幸の知らせか何かか?」
「うーん……僕にとっては、ある意味そうかも」
「ある意味ってどういう意味だよ」
「僕の彼女が明日、早朝から夜遅くまで技術研修に行く事になったんだって。なんでも本来行くはずの人が怪我をしてしまって急遽決まったらしい」
「ああ……そりゃあ確かに不幸かも。けどさ、別にデートの約束とかしてたわけじゃないんだろ?」
「してないけど、一人の部屋にいるのってあんまり好きじゃなくて」
「……ちょ、宗谷、お前同棲してんのか!?」
 驚きのあまり声を上げる山上に、僕はしまった、と口を押さえた。けれど一度口にした言葉を取り戻せるはずもなく、渋々と肯定する。
「うん、まあ」
「くぁーっ、いいなぁ。俺もカノジョと一緒に住みてぇ……!」
 拳を握り締める山上の言葉には実感があり溢れていて、僕は思わずふき出してしまう。
「でも、一緒に住んだら住んだで色々大変みたいだよ? うちは付き合いも長いし共同生活にはお互いに慣れてるからそんなに問題はないけどさ、彼女の親友とかは生活習慣とか価値観の違いのせいで苦労したみたいだし」
「あー、そっか、そういうのもあるんだよな。しかも俺、今は残業代で稼いでるようなもんだしなぁ。となるとあいつを一人で待たせる事になるのか。ぬぬぬ……それは嬉しくない、実に嬉しくないぞ」
「残業、減らせばいい話じゃない。山上要領いいんだし、できない話じゃないでしょ」
「そりゃできなくはないけどさ、今はちょっと必死こいて金貯めてるのよ。一年半ぐらい目処にあれこれ企んでてさ」
 にんまりと笑ったその顔を見た瞬間、なんとなくだけれど僕は山上の企み事の内容を察してしまった。苦笑交じりの息と共に、僕はぼそっと告げる。
「……お祝儀はあんまり期待しないでほしいな」
「いやいやそんな、もちろん期待してますともさ!」
「期待されてもね……そもそもそれまでに山上が振られてない保証もないし」
「ちょ、それ酷すぎじゃね!?」
「だって山上だし」
 さらりと告げれば、じっとりとした目線が僕に向けられる。
「――宗谷の俺に対する認識がよーくわかる発言だな、それ」
「仕方ないじゃない。自分の行動振り返ってごらんよ。――まあ確かにここ半年ちょいはおとなしいみたいだけど」
「そりゃあれだろ。俺がカノジョと上手く行ってる何よりの証拠だろ」
「ああ、それまでは上手く行ってなかったんだ。てか、君があんなだったから上手く行ってなかったんだよな」
「……だからなんでそこでナチュラルに納得しやがるかね」
「それはやっぱ、山上が山上だからでしょ」
 他に説明が見つからなくて、僕は苦笑を交えながらも率直なところを口にする。山上が仏頂面で嘆息したところでコンビニに到着する。ガラス扉を開くと中から漂ってきた冷気に身体がふるりと震えた。
 日がな一日椅子に座ってPCと睨めっこをするのが仕事と言っても過言じゃないため、僕はほぼ常にってくらい首から腰にかけてが凝り固まってしまう。だから週に二回、水曜日と土曜日の風呂上りには、ワカがどうしようもなく疲れているとかでもない限り、僕はワカにマッサージをしてもらっている。
 毎日じゃないのは、当然だけどワカの負担を考えて。それに、そもそも自分でストレッチをしたり身体を動かすように気をつけてれば、マッサージなんて必要ないはずなのだ。僕はワカに甘えるのはかまわないと思っているけれど、自分自身の不摂生のツケを押し付けるマネはしたくない。
 そんなわけで、ワカと一緒に少し遅めの夕食を摂った後、ほんのちょっとの休憩を置いてお風呂に入った僕は、長年使ってるおかげでそれなりに年季の入っているヨガマットをリビングに広げ、簡単なストレッチをする事で、少しでも凝り固まっている身体を解そうと試みる。元々柔軟性はある方だから、屈伸運動を何度か繰り返しているうちに、ぺたりとまではいかないけれど、それでも「悪くない」程度には前屈できるようになる。
「おおー、いい感じにぺたんこじゃない。昔はナナメ四十五度でも苦しがってたのにね」
「ちょっとワカ、それ、一体何年前の話だよ? それに、そんな僕の背中に乗っかって遊んでたのはワカだろ」
「あはははは、そういえばそんな事もしてたっけ」
 けらけらと笑いながら徐に僕へと近づいてきたワカは、僕が身構えるより先に僕の背中へと形のいいお尻をどんと乗せ、遠慮なしに体重をかける。
「ぐえっ」
「これで完璧ぺったんこ。てかさ、自力でこれくらいできるようになりなよ」
「ここまでなるのに十年かかってるってのに無理だってば!」
「そか、じゃああと十年がんばろうねー」
 実に無責任なセリフに苦笑しつつ、僕はよっこらせ、と身体を起こす。筋肉質なワカは、確かに軽いわけじゃないけれど、僕の膂力で退かせられないほどでもないのだ。
 何の警告もなしにしでかしたものだから、当然ワカは僕の上から転がり落ちる。ある意味自業自得なのだけれど、その落っこち方が文字どおりころんって感じだったので、僕は笑ってしまいながらも謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね。大丈夫?」
「むー。克己ってば、ちょっと意地悪だ。まったくもう、昔のあの可愛い『かっちゃん』はどこに行っちゃったんだか!」
「ここにいるってば。周囲に色々と鍛えられて、大人になったんですヨ」
「……こんな可愛くなくなるなら大人になんてならなくてよかったのに」
「それは僕が嫌だ。それに、大人にならなきゃワカとこうして一緒にいる事もできなかったんだよ?」
 可愛らしく拗ねてみせるワカに手を貸して起こしながら、そっと腕の中に抱き込む。つん、とそっぽを向く顎を捕まえて触れるだけの口付けを二度、三度と繰り返すと、いつまでも怒っていられなくなったワカは小さく笑って僕にキスを返してくれる。
 しばらくの間甘いじゃれ合いを楽しんだ後で、ワカは僕をマットの上にうつ伏せに寝かせる。その上で腰の両脇に膝を突くと、迷いのない指先が僕の背中の骨と筋肉の位置を確かめる。