かぶ

君だけの僕 ― 夕立は嵐の前触れ 05 ―

 定時のチャイムが鳴るのを待ってから帰宅準備に取り掛かる。そもそも時間どおりに帰る事を目標に仕事をしているので、五時半からの三十分は、作業の終わったファイルやチェックリストをサーバーに上げたり、各方面への報告や催促メールを送る事に終始する。IPメッセンジャーもあるにはあるし社内で導入されてはいるけれど、僕にとっては作業をいちいち止められる要因でしかなかったため、初めて使い始めてから一週間も経たずに使いません宣言を出した。
 実際、事あるごとにメッセージが飛ばされてきたせいで作業スピードが格段に落ちていたので、周囲からの顰蹙は大して買わずに理解してもらえたのだけれど、その分メールのやり取りが増えてしまってあまり意味がない。
 まあこのメールチェックも、一日数回、決めた時間にしかしないので、そこまで大きな問題にはなっていない。
 本当に急ぎの用事なら、そもそもメールなんて使わず直接口頭でやりとりするのが早いしね。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
 上司席へと一礼をして、モニター越しに山上にお先と声をかけると、僕はさっさとオフィスを後にする。
 昨日は木曜日、すなわち行きつけのスーパーのセールの日だったから、ワカと駅で待ち合わせをして盛大に買い物をした。
 運良く新鮮な牛レバーが手に入ったので、昨夜はその刺身となんちゃってピビンバで夕食にした。作り方は実にお手軽で、千切りにしたニンジンとほうれん草、もやしをざっと湯がいて湯を切った後は塩と胡椒で味を調えてごま油で和える。それを薄切りの牛肉を蜂蜜を足した焼肉のたれに絡めてざっと炒めたものと一緒に炊き立てご飯に乗っけて卵黄を落として終わり。簡単だし栄養価も満足度も高いし量を食べられるので、学生時代には肉抜きのそれに何度もお世話になった。
 今日はアジの切り身の刺身とかつおのたたき丼な魚の日。当然だけど野菜分が少ないので、萎びてしまった野菜を片っ端から放り込んだ野菜スープで補おう。それが出来上がる頃にはワカも帰ってくるはずだから時間的にもちょうどいいだろう。
 そんな風に考えて歩いていると、ぽつりと冷たいものが空から落ちてきた。
「……あ、夕立」
 意味もなく呟いたのが契機となったのか、ぱたり、ぱたぱた、ぱたたたた……と落っこちてきた水滴は、一気に土砂降りの雨になる。とっさに近くにあった個人商店の軒先に避難して、鞄の中に常備している折り畳み傘を取り出す。
 洗濯物を干していなかったのが幸いだ、などと考えつつばさりとそれを開いた時、あ、と甲高い声が上がった。
「宗谷さん見つけた! よかったぁ、置いてかれちゃったかってちょっと心配してたんです。ね、一緒に帰りましょう?」
 その声だけで、さっきまで晴れやかだった僕の心はまるでこの空模様のように沈んでしまう。
 まったく、どうしてこんな事になったんだろう。本当にうざったいんだけど。
 そんな事を胸中でしみじみと呟いて、僕はその原因となったあの朝を振り返った。

* * *

 朝早いのに、と時折戻る理性の中で抵抗を見せるワカを宥めすかしつつ存分に貪った翌朝、ただでさえ朝に弱いワカは、前夜の僕の暴挙といつもより早い起床時間のせいでどんなに起こしても全然目が覚めず、僕は苦笑混じりながらも嬉々として、自分で言うのもなんだけど、実に甲斐甲斐しくお世話をさせていただいた。
 なんていうか、こんなダメダメになってるワカってあんまりないから、こんな風に一から十までワカに手をかけられるってのは、僕にとってはちょっとどころでなく嬉しい。
 前日のうちに必要なものは準備していたから、やっぱり半分眠ってるワカを半ば抱えるようにして借りてきた車に乗せて品川まで送り届けた。
 幸いな事に駅に到着する頃には合計三杯のカプチーノがようやく効いてきたようで、いつもよりちょっと頼りないかも、くらいにまでワカは復活してた。
 そんなワカをきちんと待ち合わせ場所まで送り届け、迎えに来るから連絡してね、と念押しをした上で車の元へと戻る。最後の最後で完全に覚めたワカが、僕がどれだけ(彼女にとって)恥ずかしい真似をしていたのかに気づいて赤くなったり青くなったりしてたけど、すでに同僚の人たちが回りにいたし、僕は僕でさっさとその場を後にしていたから、多分きっと、今夜盛大に文句を言われるのだろう。
 都心から郊外へと向かう道路は、当然ながら郊外から都心に向かうそれよりも幾分か空いていて、すでに渋滞の気が見えはじめている隣の車線を尻目に自宅へと帰り着いた。
 思っていたより時間が経っていたらしく、少し急いで出社準備を整える。とは言っても、所詮は男の着替えだ。スーツを着てネクタイを締めて、ワカのと一緒に作っておいた弁当をカバンに放り込めばそれで終わり。
 家を出て駅の方角へと視線を向けたその一瞬、車で出社しようかなんて気弱な考えが頭をよぎったけれど、すぐに打ち消した。
 一日や二日、普通の時間に出社したからって何事があるわけでもないだろう。そう考えて。
 ……なんて格好をつけても、やっぱり周囲に二十代半ばから後半にかけての女性が、それも至近距離にいるという状況は、やっぱり僕にとってあまり嬉しいものじゃない。出社時間が近い事もあって混雑する電車を降りた時には、それだけで十分すぎる程疲れてしまっていた。
 改札を出てちょっと先にある空間に身を置いて、せめてとばかり家から持ってきたペットボトルの水で喉を潤していると、ふと聞き慣れた声が聞こえた。
「あれ、宗谷? こんな時間にどうしたんだ?」
「おはよう山上。そっちこそ、今日は早いんだな」
「……あのな、俺は別にいつも遅いわけじゃないんだぞ。お前がいつも早くに来てるから、相対的に俺が遅く来てるように感じるだけなんだぞ」
 冷静に指摘されていつもの朝の風景を振り返る。
「そうだっけ? ……ああ、うん、そうかも」
「まあそれも、こんなところでのんびり休憩してなきゃの話だけどな。ほら、行こうぜ。朝礼始まる」
 肩を叩いて先へと促す山上に頷いて、僕は水のボトルを鞄の中へと戻しながら足を動かしはじめる。けれど歩きはじめて五分も経たない内に、我慢の利かない山上は、どこかにやけた顔で問うてきた。
「――で、何があったんだ? 今日はカノジョ、早くに出たんだろ?」
「出たって言うか、送ってきた」
「送ってきた?」
「うん。都心近くに住んでる友人が車を持っているから、昨日の内に借りてきたんだ。それで今朝、早くに起きて送ってきた。その往復分でいつもより遅くなったってわけ」
「……なんていうかさ、前々から思ってたけど、宗谷ってマジ、カノジョの事溺愛してるよな」
「そんなの当然だろう? 山上だってそうじゃないのか?」
 感心するようなその声に、僕は思わず聞き返していた。もちろん世の中には寂しいからとかセックスしたいからとか利害が一致するからなんて実にさもしい理由で恋人を『作る』人たちがいるのは知っていたけれど、なんとなく、山上は本命の彼女に対してはそういうのじゃないって思っていた。……のだけれど、違ったのだろうか。
「あー、うちはさ、それこそお前がいつも言うみたいに、俺の過去の悪行が災いして溺愛したくてもさせてもらえないのよ。もうね、甘えていいよーてか甘えてくださいお願いしますって平身低頭してるのに、そう容易くは信じてもらえなくてさ。もうなんてーか、警戒心ばりばりの野良猫状態。こっちの差し出すエサとか撫でる手を受け入れたいんだけど受け入れていいんだろうかってぴりぴりしてるのが見てわかるくらい」
 口調こそは落ち込んでいるような様子だってのに、目元と口元が言葉の内容を見事に裏切ってる。
「……山上、愚痴ってるつもりかもしれないけどさ、本当はノロケてるだろ」
「あ、わかる? やっぱわかる? もうね、そんな全身毛羽立ててるカノジョが可愛くて可愛くて。ネコ好き心理ってこういうのかなーとか思いつつ、日々をすごしてるわけですよ!」
「Sな態度も程ほどにしないと、そのうち手酷く引っかかれた挙句逃げられちゃうよ」
「それはない。や、引っかかれるのはあるかもだけど、その直後にしまった! ってなってこわごわと傷を舐めてくれるような子だから全然大丈夫!」
「その自信、どこから来るの?」
「だって俺、カノジョの事愛してるし、彼女も俺の事が大好きだから!」
「――悪いけど山上、全然意味通じない。てかどこをどう取ってもその論理は成立してない。論拠が足りなすぎる」
 冷静にツッコめば、さすがの山上もぐっと言葉に詰まる。しょぼん、と、実にわかりやすく落ち込む山上を見ていると、実にいじり甲斐のあるやつだ、なんてとことん失礼な感想を新たにしてしまう。
 まあ、このいじり甲斐こそが、山上が周囲から可愛がられている要因なんだろう。
 などとどうでもいい分析をしつつ信号が変わるのを待っている僕たちの真後ろから、唐突に甲高い声が放たれた。