かぶ

君だけの僕 ― 夕立は嵐の前触れ 06 ―

「うそ、宗谷さん!? うわ、朝から会えるなんて、杏奈、すごく運いくないですかぁ?」
「風間ー。俺もいるんだけど、俺に会えたってのは運いいのに入らないの?」
「あ、山上さんもいたんですかぁ? 杏奈、宗谷さんしか見えてませんでした。ごめんなさい」
 てへ、なんて笑うその声に、僕は自分自身でもはっきりと、眉間に深い深いしわが刻まれるのを感じる。
「でも宗谷さんがこの時間に出社するって珍しいですよね。寝坊ですかぁ?」
「まさか。僕は朝には強いんだ。今日は純粋に家庭の事情」
 さらりとあながち嘘でもない理由を吐けば、すぐ隣で山上がぶは、と吹き出した。
「そうくるか。つかさ、宗谷の場合、その『家庭の事情』でいつも早朝出勤してんだよな。普通、定時帰宅したいからって残業分を早朝に持ってくるとかやるか?」
 半ば呆れ顔の山上に、僕はほんの少し肩を竦める。
「別に、何も問題はないでしょう? 冬場でもなければ僕の席は窓際だから部屋の電気を点ける必要もないし、冬はみんなが来た時点ですでにオフィスが暖かくなってるわけだし、僕は邪魔が入らないから仕事が捗るし」
「すっごーい! やっぱり宗谷さんって色々考えてらっしゃるんですねぇ! てか宗谷さんが早朝出勤してるなら、杏奈も見習って朝早くから来ようかなぁ」
 ちらりとこちらを上目遣いに見てくる彼女に、神経がちりちりとささくれ経つ。その不快感を隠すのすら面倒で、僕は視線を前に向けたまま、そっけなく返した。
「そんな朝から来て何をするの? 意味もない早朝出社を認めてくれるほど、二宮さんは甘くないよ。朝早くから来る人が増えても邪魔だし、そもそも残業や早朝出社なんてしないでいいように仕事をするのが正しい心がけだと思うけど」
「そうだよなぁ。宗谷の場合はあれこれ押し付けられてるから早朝出勤が必要なわけで、本来の仕事だけなら全然必要ないもんなぁ」
「うん。それに、早くに出ても仕事がない時は請求してないし」
「え、マジ? じゃあ全然意味ないじゃん」
「意味はあるよ。一緒に出られるから」
 そっと山上に視線を向けて、端的に言葉を綴る。それだけで意味を理解したのだろう。あーあーなるほど! と声を上げて、訳知り顔でニヤニヤとこちらを見る。うん、君の事だからそんな顔すると思ってたよ。
「あー、二人だけでわかりあってるー! ずるいです。杏奈も仲間に入れてくださいよぉ!」
 キンキンと神経に障る声が頭痛を増長させる。この不快感と頭痛で午前中は仕事にならないかもしれないと懸念を抱きつつ、僕らはようやくたどり着いた社ビルのロビーへと足を踏み入れた。

* * *

 その日以来、彼女はほぼ連日、定時に仕事を切り上げて僕を追いかけてくるようになった。
 時には仕事が残っていても関係なしなようで、佐々木さんや二宮課長代理も真剣に頭を抱えている。けれどその原因であろう僕に苦情が来ないのは、僕自身が彼女に迷惑をかけられていると知っているからだろう。
 元々夏が深まると体力と食欲が落ちて体重を落とす僕だけど、今年はそれが七月も半ばを過ぎたばかりの今からすでに始まっている。
 完全にストレスだね、と、ワカからもお墨付きをいただいてしまった程で、一応体力を落とさないようにとなるべく滋養のあるものを食べるように努力はしているけれど……どうなんだろう、あんまり効果があるようには思えない。
「……別に、君を待たなきゃならない理由もないでしょう。それで、何か用?」
「だからさっき、一緒に帰りましょうって言ったじゃないですかぁ。やだな宗谷さん、暑さでボケちゃってます?」
 とりあえず、タメ語にですますを加えたところで敬語にはならないって事、この子は知らないのだろうか。……きっと知らないんだろうな、この様子だと。まあ、勤続年数はこっちが上だけど、年齢自体は同じぐらいだから仕方ないのかもしれない。
「君と一緒に帰る理由もないし、寄るところあるから」
「そうなんですか? あ、じゃあ杏奈、お付き合いしますよぉ。どこに行くんです?」
 ……本当に、いい加減にしてほしい。謙虚さとか空気を読むとかといった日本人特有の性質を、この女性は持ち合わせていないのだろうか。そもそもこんなに君とはご一緒したくありませんオーラを出しているのにどうして気づけないんだろう。いや、気づいていても無視しているのか。だとすればいっそ、僕にそのスルースキルを分けてほしい。
「別にどこでもいいでしょう。君には関係ない」
 ほとほと疲れ果てて切り付けるように言い捨てる。そしてそのまま雨の中へと足を踏み出す。多分いつものように勝手について来るんだろう彼女を意図的に無視して、駅のすぐ傍にあるドラッグストアへと意識を集中させる。後ろから慌てたような声が聞こえたかもしれないけれど、気のせいだ。雨の音に混じる雑音に違いない。
 一先ずの目的地であるドラッグストアに着いた時、遠くで稲妻が光るのが見えた。まるで嵐のはじまりのようだなんて頭の片隅で考えながら、僕は店内へと閉じた傘と共に踏み込んでいく。そのまままっすぐに迷う事なく一番奥に位置しているそのコーナーへと足を進め、それなりに商品の揃っている棚を眺めた。
「宗谷さん足速いで――っ!」
 ああ、まだ着いてきてたの君。てか、よくここまで来たよね。普通の女性ならなるべく来たがらないと思うんだけど、やっぱり普通じゃないからだろうか。
 うーん、とわざとらしく一つ唸って自分サイズのコーナーへと視線を移動させる。こうして見てみると、なにやら色々な種類があるのだなあと妙に感心してしまった。薄さは確かに重要だけどなんだこのイボ付きってのは。世の中の男性陣はそんな付属品なしで女性を満足させられないのだろうか。それにこのフルーツフレイバー付き……は、ああ、うん、なるほどそういう用途か。まあ不快感を与えないって意味では重要かもしれない。
 なんてどうでもいい考察を繰り広げつつ、実はまだ家に予備の残っているその箱を一つ――いつも使っているやつと値段は変わらないけれど薄めのを選んでしまったのは、まあオトコゴコロの成せる業だとでも思ってほしい――手にとってレジへと向かう。そのついでに、今切実に必要だと思われる胃薬を拾い上げた。
 会計を終えて店先までやってきたところで、てっきり消えてくれたものだと思っていた姿を目にしてげんなりする。
 頬がやたら赤く見えるのは、この雨による蒸し暑さが原因なんかじゃないだろう。
「お、驚きました。宗谷さんああいうの、普通に購入するんですね」
「……君さ、そんなに人のプライバシーとプライベート覗くの好きなら、うちの会社辞めてゴシップ記者にでもなれば?」
「あたしは! ……あたしが知りたいのは、宗谷さんの事だけです!」
 ああ、うん、もう無理。これ以上は本当、マジ勘弁してください。
「で、僕は知られたくない。わかる? 迷惑なの。僕には恋人がいるし、彼女とは別れる気もないし、他の女性なんてどうでもいいの。むしろ君は僕にとって煩わしい存在なだけ。それに、迷惑してるのは僕だけじゃない。君が僕を追い掛け回しているせいで会社にも迷惑かけてるってわからない? 佐々木さんからも二宮課長代理からも言われてるんでしょう? 寿退社目当てで入社したらなら会社の事なんてどうでもいいかもしれないけれど、とりあえずその相手を探すなら、僕以外にしてくれ」
 はっきりきっぱり言うべき事を告げる。僕にここまではっきり言われるとは思っていなかったのだろう。顔に驚愕を貼り付けた彼女は、言葉すらも出せずに、まるでおかしなものでも見るような目で僕を見つめた。
 その視線すら本当にうざったくて、僕はさっさと傘を開くと雨の中へと足を踏み出した。
 通りすがった八百屋さんでラジオが天気予報を流していた。どうやらこの雨は夕立ではなく本格的な雨に発展するようだ。遠い南洋では第何号かの台風が発生しているらしい。
 無駄に時間を使ってしまった。早く帰らないと、夕食ができるより先にワカが帰ってきてしまう。
 頼むから日本に上陸するのはもう少し後にしてくれと心の中で呟いて、僕は駅までの短い距離を急いだ。