かぶ

君だけの僕 ― 秋の夜長に夢を見る 03 ―

 クールビズ期間も終わりを告げ、当然にスーツジャケットが必要になった頃、その知らせは思いがけない訪問者によって手ずからもたらされた。
「宗谷、久しぶりだな!」
「……北先輩……」
 昼休み間近に二宮課長代理と一緒にオフィスに入ってきたのは、僕がこの部署に配属された当初、新人研修係として一番お世話になった人だった。
 彼は僕が自宅勤務をしている間にプロジェクトの関係で別会社へと出向していたはずだ。プロジェクト自体は一応終結したものの、まだ運用やら不具合対応やらで手間取っているためしばらく戻ってこれないだろうという話だった。
 だというのに、どうしてこんなところにいるんだろうか。
「何をンな呆けた顔してるんだ? そんなに俺に会えて嬉しいのか?」
「いえ、それ以前に、ここで一体何をしているのかなあと」
「……お前ね、そこは嘘でも嬉しがれよ」
 ちょっとがっくり肩を落とした先輩は、けれどすぐに気を取り直して肩越しに時計を指差した。
「そろそろ昼食だろ。二宮さんから許可はもらってるからちょっと早いけど出ようぜ。話があるんだ」
 珍しい事もあるものだと瞠目しつつ二宮さんへと視線を向ければ、ちょっと困ったような笑みを浮かべて頷く。どうやら結構ごり押しをしてもぎ取った許可らしい。
 運良くというかなんと言うか、取り掛かっていた作業もちょうど一段落が着いたところだったので、特に否やもなく僕はジャケットと財布を手に立ち上がる。
「いいなー宗谷。俺もサボりてぇ……」
 キーボードに懐きながらボヤく山上に小さく笑いながら、お昼お先にと告げて、僕はさっさとドアへと向かって歩き出した北さんを追いかける。
 挨拶に毛が生えた程度の当たり障りのない会話をしながら連れて行かれた先は、会社からそう離れていない定食屋だった。ここ、結構ちゃんとした料理が出るから、一人暮らしをしていて自分で料理をする事の少ない連中には大人気だったりする。おかげでこんな抜け駆けでもしない限り、中々簡単に席には着けない。
 メニューをざっと見てから北さんと同じく日替わり定食を注文した僕は、出されたちょうどいい熱さの番茶で口を潤して早速とばかりに切り出した。
「で、どうしたんですか?」
「――お前、相変わらず単刀直入なヤツだな」
「変わらなきゃならない理由も特にありませんから。それに……北さんが前触れもなくこんな辺鄙なところにわざわざ足を運んだ上で無理を言ってまで僕を連れ出すとか、珍しい、どころじゃないですよね」
 一緒の部署で仕事をしていた頃ならともかく、すでに別の場所で仕事をしていて業務連絡以外で連絡を取り合う事も稀な相手が一時間近くかけてきた挙句、二宮課長代理に掛け合ってまで僕と話をしようってのは、はっきりきっぱり異常とすら言ってもいい。
「あー……まあ、確かにな。普通ならありえないよな」
 こちらもお茶を飲みながら苦笑を返す。癖の強い髪を節だった大きな左手で掻き混ぜて、ひとつ大きく息を吐いた。
「お前も知ってるだろ。俺が会社とは別でもシステムとかゲームの開発やってっ事。それがさ、結構軌道に乗っててな。近々、独立する事にしたんだ」
「それはまた……思い切りましたね」
 もともと会社という枠組みには嵌りきれないタイプの人だったからいずれは独立起業の道を選ぶだろうと思っていた。けれどこんなにすばやく行動に出るとは、正直思っていなかった。
「はは、自分でも思うよ。けどさ、なんかこう、ここ数ヶ月で色々考える事があってな」
 はっきりと疲れを感じさせる声に驚きすら覚えて改めて目の前に座る先輩社員を見つめる。
 非公式ながらも自宅勤務していた僕の家に出向になったのだと伝えにきてくれたあの時にはなかったはずのしわがその目元にくっきり刻み込まれてるのに今更に気づいた。
 まるで会話が途切れるタイミングを見計らっていたかのように配膳された日替わり定食へと箸を付けながら、北さんが強引に言葉を繋ぐ。
「まあ、とにかくそんなわけで、こっちでも勇退会を開いてくれよってねだりに来たのがひとつと……後はやっぱさ、お前の事が気になって」
「僕の事、ですか?」
 率直すぎる北さんの言葉に苦笑する間もなく話題をこちらへと向けられて、僕は無意識に居住まいを正した。
「ああ。二宮から話は聞いてたんだ。ただこっちもあれこれで忙しくて顔出す暇がなくてな」
 すまん、と頭を下げる北さんに慌てて頭を上げてくださいとお願いし、彼が元の姿勢に戻ったのを確かめてから口を開いた。
「それよりも、二宮さんの話って、もしかして……」
「ああ。新人ん時と似たような――つか更に酷い事になってるんだって?」
「やっぱりそれですか」
 また浮かんできた苦笑混じりにそっと息を吐き出して、選び選び言葉を繋げる。
「夏ごろまでは精神的にかなりきつかったりもしましたが、最近は落ち着い……て、ると思います。特に声をかけられる事もなくなったと、思いますし」
「――宗谷。おにーさん怒らないから正直に言いなさい。お前ぶっちゃけ相手の顔覚えてないだろ」
 あっさりと言葉に迷った理由を看破され、僕はもうへらりと笑う以外の反応を返せない。
 そもそも人の顔をあまり見ない上、二十代の女性はどんぴしゃでトラウマの対象のため、限られた友人以外とは極力視線を合わせないようにしている。それでどうやって覚えられるというのだろう。ただでさえみんな同じようなメイクに髪型、服装をしていて個別に認識し辛いってのに。
「つくづく思うが、お前本当になんでモテるんだろうな……」
「知りませんし、嬉しくないです」
「そりゃ知ってるけどさ。……まあ、あれだ。何かあったら俺にも声かけろって話だ。本当は引き抜きとかできたらいいんだけどよ、今は自分の事でいっぱいいっぱいなんだ。それでも話を聞くぐらいならできるからさ」
「ありがとうございます。それに、大丈夫ですよ。なんたって最強のコネ入社ですから」
 自分でもらしくない事を言っていると思ったのだろう。日に焼けた顔を赤く染めてそんな事を言ってくれた北さんに、僕は冗談めかしながらも素直に頭を下げる。そんな僕に、はたと今更に思い出したとばかり、北さんが手を打つ。
「あー、そういやお前、それがあったんだよな。だから一年目にも関わらず、自宅勤務なんてありえん措置が取れたんだっけ」
「僕みたいな育ちをしていると、妙なところのネットワークがすごかったりするんです。とは言っても、就職で使ったコネは距離が近すぎて本当ごめんなさいな気分だったんですが」
 何しろ、言ってみれば義理の妹の旦那さんのご実家経由な感じのコネなのだ。僕自身も彼とそれなりに親しくしていたし、彼の親友とも趣味を通じて交流が多かったせいで、就職先について相談を持ちかけた時は僕もワカも本当に身の置き場がなかった。まあ、こちらの提示する条件が限りなく低く、また幸いにも僕自身の持つスキルや学歴が相手が求める以上だったおかげで、そこまで無理を言わずにすんだのでほっとしていたり。
 いずれにしても、そんなコネがあったおかげで、事情があったとはいえ入社一年未満な新入社員の分際で自宅勤務させてもらえたり、早朝出勤の残業ナシなんて変則勤務を許してもらえたりしているというわけだ。
 ……なんて、こんな事、これっぽっちも自慢になんかならないけれど。
「やっぱ、宗谷は宗谷だな。そこでなんでごめんなさいだよ。楽できてラッキー! とかってなるのが普通だろ」
「えー……じゃあ僕、普通じゃなくていいです」
「安心しろ。お前はこれっぽっちも普通じゃないから」
 やたら真摯にそんな事を言う北さんを見ていると、肩からするすると力が抜けていく。なんだろう、北さんに普通じゃないって太鼓判押されるとか、ちょっとすごい気がする。
 そんな心情をしみじみと口に出した僕に、
「……お前、やっぱ変なところで大物だよな……」
 呆れたような、けれどどこか嬉しそうな口調で、北さんはそんな風に僕の言葉を評価した。

* * *

「――そんなわけだから、来週の金曜日は帰りが遅くなるんだ」
 いつものように僕より遅く帰ってきたワカと夕食を摂りながら報告する。今日のメインはサンマの塩焼きでサイドがほうれん草のおひたし。汁物はわかめと豆腐の味噌汁だ。
 典型的な秋の晩ご飯だね、と笑いながらも嬉しそうに食べてくれるワカにほんわかと幸せを感じながらも、せっかくの金曜日に遅く帰ってこなければならない自分の不運を考えて、ほんの少し肩が落ちてしまう。そんな僕を少し笑って、ワカは言葉を返す。
「嫌がってんじゃないよ。お世話になった人でしょう?」
「うん。だからちゃんと出席はするよ。――一次会だけ、だけどね」
 これについてはすでに北さんから直々にお許しももらってる。相変わらずだなって笑われたけど。
「一次会すら出ない、なんて言ってたら、さすがのあたしもちょっと怒ってたよ」
「うん、だと思った」
 ワカの言葉へ素直にこくんと頷くと、ん? ってな風にワカが眉根にしわを寄せる。あ、と思って、僕は急いで言葉を継ぎ足した。
「念のために言っとくけど、ワカに怒られたくないから参加を決めたんじゃないよ? ちゃんと自分で北さんの門出をお祝いしたいって思って参加するって決めたんだよ?」
「そんな慌てなくてもちゃんとわかってるって。克己、何だかんだ言って義理堅いからねぇ」
「そう、なのかな」
「んー……あぁ、やっぱ義理堅いってのはちょっと違うか。むしろ一度味方だって思った人には誠実って言った方がいいかな?」
 むう、と、箸の先っぽをくわえたままワカはとても真剣に考えはじめる。彼女が考えているのは僕の事だとわかっていながらもなぜか妙な疎外感を覚えてしまって、僕は自分の箸を置いて立ち上がるとワカの元へと足を運んだ。
「――ねえ、ワカ。僕がここにいるってちゃんとわかってる?」
 まだ口元に留まっている箸をテーブルに置いて、その滑らかな頬を指の裏でそっと撫でる。ちゅ、と口付けると、さっきワカが食べたばかりのサンマの味をほんのりと感じた。
「克己?」
「早く食べ終わってよ。僕、ワカが食べたくなっちゃった」
 耳元に囁いた声は、自分自身でもはっきりわかるくらい劣情に満ちていた。