かぶ

君だけの僕 ― 凍える闇夜に光を求む 01 ―

 現に夢を見た。
 それは甘い甘い、あまりにも甘くてぐずぐずに溶けるような、そんな夢。
 柔らかな身体が僕の身体の上で鈍い感覚から快感を引き出そうとするように蠢いていた。
 ああだけど、これは本当に夢なのだろうか。
 僕は酔っ払って帰ったいくつもの夜のように、ワカに甘えてしまっているだけじゃないのか?
 それとも今夜は僕がすっかり酔ってしまったから、だから甘やかしてくれているのだろうか。
 時々ワカは僕をとことんまで甘やかしてくれる。
 それは本当に年に何度もない程度なのだけれど、そんな時はこんな風に絶対的な主導権を握って、僕をただただ愛してくれる。
 ワカ、ワカ、好きだよ、ワカ。
 呂律の回らない口で愛の言葉を繰り返す。
 なのになぜだかワカは言葉を返してくれない。
 恥ずかしがりやでそういった言葉を得意としない彼女だけれど、それでもいつもならちょっとぶっきらぼうな口調で自分もだと返してくれるはずなのに。
 なのに今夜のワカは言葉をくれる代わりに愛撫で返そうと決めているのか、僕の胸やお腹の辺りに触れる手と指と舌が情熱を増した。
 じんわりと広がる快感に身体をもぞりと動かす。そこで初めて、僕はきちんと服を脱いでない事に気づいた。シャツは前を肌蹴ただけだし、スラックスも腿の辺りまで下げただけっていう実に半端な状態だ。
 これまで一度も着衣のままでした事がないわけじゃない。僕もワカも、お互いがどうしようもなく足りなくて、必要で、形や場所なんかどうでもよくなる事が一度ならずあったのだから。
 だけどベッドにいるのにこんな半端な格好っていうのは、正直あまり記憶にない。
 だって大抵の場合はベッドに入る前に自分で脱ぐか、ワカが脱がしてくれるかしているはずなんだ。
 いや、そもそも、酔って動けない時だって、ワカはきちんと僕を着替えさせる。
 なにしろワカは人体の支え方を熟知しているから、僕を壁や自分にもたれさせながら、酒臭いなあと苦笑交じりに文句を口にしつつパジャマを着せるのだ。
 だって、僕はスーツをたくさん持ってるわけじゃないからシワになると困ってしまう。
 だから本来ならこんな事はありえないはずで……
 なんてとぼけた事を考えている間に、ゆっくりと僕のお腹と脇腹を撫でていた手が茂みを掻い潜って反応を示している僕の中心に触れた。やんわりと握りこんで上下に動かされると、アルコールのせいでなかなか勢いづかないそいつも段々と力をつける。
 ああ、でもごめんよ、ワカ。僕はお酒が回りすぎて、これっぽっちも動けそうにないんだ。ねえ、ワカ、無理はしないでいいよ? ただ僕を抱きしめて、そうして一緒に眠ってくれたら、僕はそれで十分なんだ。
 がんばってそう言葉にしたのだけれど、それに対する答えは僕自身に触れる暖かでぬらりとした舌と口の中の感触だった。
 やっぱりこれは夢かもしれない。だってワカは、この行為をあまり好かない。や、たまにはしてくれるけど、それは僕がおねだりした時だけで、自分から進んでしてくれた事なんて一度もない。
 でも、こんな何もかもがリアルな夢があるんだろうか。僕は自分で意識しない内にワカにねだってしまっていたのか。だけどそれならどうしてワカは声を聞かせてくれないんだろう。
 ワカ、ねえワカ。声を聞かせて。ワカの声が聞きたいよ。
 自分でも情けないと思うけど、全身を巡りはじめた快感に浮かされた声で懇願する。僕もワカも一方的な行為は好きじゃない。だからいつだって、お互いがちゃんと気持ちよくなっている事を確認しながらしているのに。
 ああ、なのにどうしてこのワカは声を聞かせてくれないんだろう? 僕だけを引き上げようとするのだろう?
 駄目だよワカ、こんな一方的なのは駄目だよ。お願いだから僕にも愛させて。僕に君をちゃんと愛させて。
 口は動かしてるし、かなり滑舌は怪しいけれど、言葉は声になっている。なのにワカは全然応えてくれない。嫌だよワカ。一方通行は悲しいよ。ねえ、ワカ、声を聞かせて? あいしてるって言って? 僕はワカをあいしてるんだ。ワカに愛してもらえなきゃ嫌だよ。ワカ、ねえワカ……
 うわ言みたいに繰り返す僕の声を封じたのは、あたたかでねっとりと潤った身体だけが与えうる快楽だった。
 だけどすぐに酔った頭と身体が気づいてしまう。僕は避妊具を付けずにワカに入ってしまったという事に。
 ワカ、ワカ、駄目だよ、ねえ、ちゃんと避妊をしなきゃ。まだ結婚できないんだ。まだ子供を作るわけには行かないんだ。だからちゃんと避妊しなくちゃ。約束したのに、僕らはちゃんと幸せな家族になるんだから、ちゃんと大丈夫になるまで待たなきゃなのに。
 そんな説得の言葉は、けれど僕の上でワカが動き出したとたんに妨げられる事となった。なんて事だろう。こんなにぐずぐずになるまで酔っ払っていても快楽だけは享受できてしまうだなんて。男の身体は性交にとても便利にできていると言われているけれど、どうやら本当らしい。
 女性はちゃんと気持ちよくなるのが大変だってのに、ああ、なんで男ってのはこうも即物的にできているんだろう。僕はちゃんとワカを気持ちよくしながら気持ちよくなりたいのに、こんな一方的なのは嫌なのに、あっという間に高みに上り詰めてしまいそうだ。
 駄目だ駄目だ、このままイくなんて、それだけは絶対に駄目。
 ワカはピルがどうしても身体に合わない。
 アフターモーニングピルを使わなきゃならなくなった事は、ワカには申し訳ない事に何度かあった。
 そのたびに酷く体調を崩すから、僕はいつもとても気をつけていたのに……一体何があったんだろう?
 もしかしてワカ、何か嫌な事があった? 僕が足りなくなってしまった? だから僕をこんな性急に求めているの?
 ぬるぬると滑るそこはいつものように僕をきつく締め付ける。本当は僕が身体を支えてちゃんと気持ちよくなれるように手伝ってあげたいのだけれど、本当に今は指一本動かせない。
 時々降ってくるかみ殺した喘ぎ声は僕の聴覚もおかしくなっているのか、いつもより少し高いように聞こえる。
 僕の上で跳ねる暗闇にも白い肢体は目がぼやけてるせいで、目に焼きついてる形よりもふっくらしているように思える。
 腰の横が触れる腿もふにっと柔らかくて、掴んだりしたらずぶずぶと指が沈んでしまいそうな気がする。
 まるでワカの身体じゃないみたいに感じるけどワカじゃないはずがない。だって僕が愛していて、僕を愛するのはワカだけなんだから。
 こんな変な事を思ってしまうのは、きっと僕が酷く酔っ払ってるからだ。
 やっぱりもう、お酒は飲まないようにしなきゃ。
 ワカをワカとして認識できないなんて、ワカに対して酷すぎるもの。
 ごめんね、ワカ。気持ちよくしてあげられなくてごめん。動けるようになったらちゃんと気持ちよくしてあげるよ。ちゃんとキスをして抱きしめて、僕の指と唇と舌でくまなく愛してあげる。
 だから今は、君が気の済むようにして?
 君が僕を求めてくれるのなら、僕は何だってするし、どうされたっていいから。
 ああでも、明日はちゃんと二人で病院に行こうね。先生にごめんなさいを言って薬をもらおう。
 具合が悪くなったら、今度は僕が世話をするから。
 ね、ワカ。君は知ってるだろう? 僕は君に甘やかしてもらうのも好きだけど、君を甘やかすのも大好きなんだ。
 君の好きな卵がゆとりんごの擂り下ろしをたくさん用意するよ。グレープフルーツだってたくさん買ってきて、君がほしいだけ剥いてあげる。気持ち悪くなったら僕がちゃんと面倒を見るよ。
 そうしてちゃんと大丈夫になったら、ちゃんと愛し合おう。
 きっとだよ、ワカ。
 僕の君への想いに誓う。
 だから今は、今だけは許して……

* * *

 全身が鉛にでもなったかのように重かった。
 頭の中もぐずぐずで、このままもう一度意識を沈めてしまいたくなる。
 目の奥がじくじくと熱く、熱されたヘドロだか地上に出てきて冷やされた溶岩が流れているような、最悪な感覚。
 これを、僕は知っている。
 普通なら僕は、ワカに触れてさえいれば大抵は眠る事ができるけれど、まれにどうしようもなくなる時があって、そんな時にはどうしても頼らなければならなくなる薬。
 それを摂取した翌朝のそれに、今の状況はとてもよく似ていた。
 だけどどうして僕はそんなものを飲んだんだろう?
 ワカは僕がそういったものに弱いことも、好きじゃないことも知っているからめったな事では――それこそ、一週間以上まともに眠れない、なんてことでもない限りは飲ませないようにしていたはずなのに。
 それにしてもなんだろう。身体が変だ。身体にまとわりつく服が気持ち悪いし、身体の下のシーツがありえない感じにぐちゃぐちゃな気がする。
 僕はそこまで寝相が悪くないはずだし、ワカと愛し合ってそのまま眠ってしまったのなら服なんて着てないはずだし……
(――あ、れ?)
 一瞬、何か白いものが頭の奥に映る。
 白くてふんにゃりとした、ナニカ。
 同時にこみ上げてきたのは恐ろしいほどの生理的嫌悪感。全身を怖気が駆け抜ける。
(な、に……あれは、なに?)
 理性が思い出さなければと告げ、思い出してはいけないと本能が警告する。
 いや、その前に。
(僕は、今、どこに、いるんだ?)
 その根本的な考えに至ったとたん、純粋な恐怖が僕を襲った。
「……カ、ワカ、ワカ、ワカ!」
 叫んだはずなのに、声は声にならなかった。
 薬を飲んだ翌朝に付き物の口の中の違和感。乾ききって、粘ついて、ひりついている。
 目を、覚まさなければ。
 目を覚まして、ワカを探さなければ。
 ああ、でも、どうしてだろう。目を覚ますのが、今の状況を認めるのが、どうしてこんなにも怖いのだろう。
 だけどいつまでも怯えて現実から逃げているわけにはいかない。
 今にも意識を沈めそうになる己を強く叱咤して、重くて仕方のないまぶたを無理やりこじ開けた。
「――――」
 見覚えのない天井に、ああ、やっぱりと、妙にすとんと納得していた。
 だって、そうじゃないとおかしい。ワカがいる場所なら、僕がこんな風になるはずがない。こんなになってる僕を、ワカが一人で放っておくはずがない。
「ワ、カ……」
 ぎしぎしと頭の奥で歯車が軋む音がする。今にも壊れそうな、崩壊しそうな身体を無理やり動かし、自分の状況を確かめる。
 ありえないと、思わず笑ってしまうくらい半端な格好だった。
 ワイシャツの前は肌蹴られ、スーツのパンツもベルトと前が外され、下着ごと腿のあたりまでずり下ろされている。
(ああ……)
 なんとなく、わかってはいた。記憶には残ってはいない。だけど、気づいていた。
 自分に、何が起きたのか。何を、されたのか。
(あ、あああ、ああああああ!)
 泣いてる場合じゃない。そう冷静な声が告げる。だけど僕は。僕はワカのものでワカだけのものなのに。
(ワカ、ワカ、ごめんワカ。僕は、ぼくは君だけでいたかった。君だけの僕でいたかったのに……!)
 ぎりぎりのところでこらえ、ぎしぎしと軋む身体を起こす。
「かえら、なきゃ」
 零れ落ちる言葉。
「ワカに、かえらなきゃ」
 その意思だけで、僕は絶望に沈もうとする意識を留め、崩れ落ちそうな身体を動かした。
 知らない部屋に転がっていた鞄とスーツのジャケットを拾い上げ、ぐねぐねと力の入らない足で床を踏みしめながら、知らない風景の中へとまろび出た。