かぶ

君だけの僕 ― 凍える闇夜に光を求む 02 ―

「――克己! 克己、克己、克己ぃ!」
 やっとの思いで辿り着いた僕たちの部屋のインターホンを押したとたん、すごい勢いでドアが開いてワカが飛び出してきた。
 泣いて、いたのだろうか。目を真っ赤に腫らして縋りつくようにしがみつくように抱きついてきた身体を抱きとめる事はできず、勢いに負けて廊下の手すりにぶつかってしまう。
 背中の痛みは腕の中にある愛しい人の存在が即座に癒してくれる。だから痛くなんてない。
 それよりもワカをこんな風にしてしまったというその事実が僕の心を切り裂く。
「ごめん、ワカ。僕は、僕は……!」
 それ以上はもう言葉にならなくて。
 最後の理性で足をもつれさせながら部屋へと入り、ワカの身体を強く強く抱きしめる。
「……か、つみ?」
 ようやく僕がここに、ワカの元に帰ってきたのだと理解してくれたらしい。僕に抱きついていたその腕を少し緩め、窺うように僕の顔を覗き込む。
 そこに何を見出したのか、一瞬驚いた顔になった後、ワカはさっきまでの頼りない表情を怒りのそれに変えた。だけどそれは僕に対するものではなくて。
「――誰? 誰が、あたしの克己を、そんなにしたの?」
 ワカ以外の人に奪われてしまった僕をまだワカのものだと言ってくれた事に深く安堵して、僕はようやく崩れ落ちることを自分に許した。
 僕は身に起きたこと――厳密には記憶が定かではないため起きたと思しい出来事について、ワカに包み隠さず話した。
 つまり、その、意識が朦朧としている中で、誰か知らないヒトと身体を繋げてしまったらしいと。今朝目が覚めたのは多分そのヒトの自宅で、相手が誰かは知らないし、知りたくもないから会わずに帰ってきたのだと。
「克己。すぐに病院行くよ」
「……え?」
 心配と不安から一転して燃え上がった怒りに身を震わせながらも冷静さを保ちつつ話を聞き終えたワカの第一声を、僕は一瞬理解できなかった。
「学院の近くにあった産婦人科。覚えてるよね? あそこに行って、ちゃんと診てもらおう。きちんと状況を記録して、どんな事が起きても対応できるようにしないと」
「でもワカ――」
「でもじゃないでしょう!? 多分、ていうかほぼ確実に、克己は何か飲まされてる。そうじゃなきゃ、起きたときの状況も不快感も、克己が見た『悪夢』についても説明が付かない。だけどね、克己。あんたが男である限り、あんたを無理やり手に入れようとした相手より、遥かに不利な立場にあるの。今すぐ動けば身体の中に薬品が残ってる可能性がある。ちゃんと証拠を全部残して、最悪の状況だけは回避するの」
 一秒でも早く穢れてしまった身体を綺麗にしたいのだと愚図ろうとした僕を、ワカが固い口調で説得する。
 言われれば確かにそのとおりだ。ひとまず後で必要となるだろう着替えの服を準備すると、ワカが呼んだタクシーに乗った。
 向かったのは、僕たちの古巣の近くにある産婦人科。そこで昔からお世話になっている先生に事情を話し、血液検査と、それから恥ずかしいし嫌だったけど、昨晩性行為があったのかどうかを確かめる検査をした。
 先生からもういいよと許可を得てウエットティッシュで一通り全身を拭って着替えた僕が知らされたのは、ある意味最悪の結果だった。
 ――相手の女性のものであろう粘液が、僕の身体に残っていた、と。
 瞬間、おぞましさのあまり僕はトイレに駆け込んだ。
 昨日の夜食事を終えてからすでに半日近くが過ぎている。当然残るもののない胃からは胃液しか出なかったけれど、それでも僕は生理的なものだけではない涙を零しながらえづきつづけた。
 ワカは、僕がワカだけのものでいることに安らぎを覚えていたのに、他のヒトに――たとえ僕が望んでいなかったとしても――触れられてしまった僕を、いらないと判断してしまったらどうしよう。触れられたくないと、顔を見るのも声を聞くのも嫌だと思われてしまったらどうしようと、不安が僕の身体を更に狂わせる。
 けれどワカは何も言わずに僕の傍について、生理的嫌悪感に慟哭する僕の背中をさすり、抱きしめてくれた。
 落ち着きを何とか取り戻して診察室へと戻ってきた僕を待っていたのは、この病院の院長で、優れた精神科医でもあるおじいちゃん先生だった。
 彼には僕が学院に入った頃からずっとお世話になっていた。とても穏やかな話し方をするこの人がワカと一緒に僕を辛抱強く宥めてくれたから、かつては手の施しようがないくらいだった僕の女性恐怖症も今のレベルにまで治まったのだと思う。
 そんな恩と信頼があるからだろう。ひとたび落ち着きを取り戻した後は、比較的冷静に告げられる言葉を受け止められるようになっていた。
「克己君、大丈夫だよ。君は何も悪い事はしていない。ただ、悪い人の手に、落ちてしまっただけなんだ」
 いつものように穏やかな声で告げられた言葉に、僕は一つ頷きを返す。
「どういう種類のものかはこれからきちんとしたところで調べてもらうけれど、ここにある試験薬で確かめたところ、微量にだけれど、デートピルと呼ばれるクスリの成分が検出されたんだ」
「……デートピル、ですか?」
 聞き覚えのない言葉を、喉が焼けてしまった僕の代わりにワカが繰り返す。
「うん。人に飲ませると酷く酔っ払ったみたいに前後不覚になってしまうクスリなんだ。大抵は血気盛んな男の子が女の子に酷いことをするために使われることが多いけれど、今回は君が被害者になってしまったらしい」
「つまり、誰かが克己にそれを飲ませて、克己と無理やりしたって事ですか?」
「状況からしてそうだと思う。克己君は元々睡眠薬も効きすぎるきらいにあるから、余計に回ってしまったのだろうね。朦朧としてはいても若干の意識は残るから、たとえ女性にでも支えられて指示をされたらある程度は歩くこともできるし、筋肉が弛緩しているわけでもないから、刺激を与えられれば性行為もできてしまう。男の身体はどうしようもないくらい単純だから、そうなってしまえばどうする事もできないんだ」
 白い眉を八の字にした先生の言葉に、ワカがくしゃりと表情を歪める。哀しさよりも悔しさを色濃く滲ませる横顔に、僕は彼女の震える手をそっと握った。
「相手が誰なのかは覚えていないと聞いたけれど……」
「わから、ないです。正直、その、されて……た、時は全てが朦朧としていたし、酔っ払いすぎて視覚とか感覚がおかしくなっているだけで相手はワカだって思っていたので……」
「なら余計に辛かっただろうね。だけど大丈夫だよ。きちんと警察にも話をして、万が一相手が何かを言ってきたとしても対応できるようにしておきます。克己君を若菜ちゃんから取り上げさせるような事は、絶対にさせませんよ」
 僕たちの関係性を一番正しく理解しているであろう先生は、僕ではなくワカに向かって告げる。はい、と、小さな声で返したワカの表情は、やっぱりまだ固い。それでもさっきに比べると僅かばかり血の色が戻ってきているようで、ほんの少し安心した。
 本当に今更だけれど、嫌悪感だけで動かなくてよかったと思った。
 僕たちは二人とも、そこに行き着いた経緯は異なれど、いわゆる養護施設に預けられた子供たちだ。
 そこには一般的に思われているような親に捨てられた子供だけがいるわけじゃない。親や兄弟から不当な扱いを受け、保護された子供たちも哀しい事に少なくなかった。
 一般に暴力と括られるそれは、精神的なものや肉体的なものの双方があり、肉体的なものは殴る蹴るなどの暴行に加えて性的暴行も含まれる。
 往々にしてそういう親たちは子供たちを酷く扱うくせに、どういうわけか一度引き離されると何が何でも取り戻そうとするケースが多い。中には本当に過去を悔い改め、酷く傷つけた子供を幸せにするために尽力する人もいるけれど、残念なことに保護される以前と変わらない扱いをする者も少なくないと聞かされたし、それが理由で戻ってきた子供たちを何人も見た。
 加えて僕たちの育ちを卑しいものと考え、弱者であるから虐げるのは当然だと考える者も世の中には存在してしまう。
 実際、僕たちがあそこにいた数年ほどの間にも、嫌な事件は幾度か起きていた。
 そうした経緯があって、僕たちは否が応にも学んでしまった。対象は主に女の子だったけれど、望まない事を強いられてしまった時には何をしなければならないのか、何をするべきなのかという事を。
 僕は女の子ではないけれど、だからこそ逆に自分の身を、生活を、そして何よりワカを守るために、きちんとした対処をしておかなければならなかったのだ。
 相手が誰かはわからないけれど、そのヒトは避妊をせずに行為に及んだ。その結果、僕の望まない事象を引き起こす可能性はゼロではない。だからこそ、それが僕の意思ではなかったと証明できるものが必要だった。
 きっと、自宅近くの病院でも同じような事はできただろう。だけどあえてこの病院まで来たのは、こういった対応に慣れていて、更に僕たちのことをよく知る人がいたからだ。正直なところ、僕の精神的な傷を知らない医師や看護師が相手だったなら、きっと僕は今頃手の付けようのない状況に陥っていただろう。
「面倒くさい事はひとまずこちらで対応しておきましょう。克己君も若菜ちゃんもゆっくり休んだ方がいい。週明けあたりにそちらに連絡が入って人が行くか呼び出しがかかるかと思うから、きちんと対応するようにね。」
 好々爺な笑みを浮かべてそれじゃあまたねと手を振る先生に二人して頭を下げて診察室を出た。