かぶ

君だけの僕 ― 凍える闇夜に光を求む 03 ―

 ようやく自宅に帰りついた、それがもう限界だった。
 ずっと手を握ってくれていたワカを振り切って浴室に飛び込むと、シャワーを全快にして服を着たまま水を浴びる。ぶるぶる震える手でボタンを外そうとするものの、濡れて滑りにくくなっている上この手だ。上手くいくはずもなく、僕は癇癪を起こしてボタンを引きちぎり、シャツを脱ぎ捨てた。
「あ、ああ、ああああああ……!」
 混乱の中、どうやって残りの服を脱いだのか覚えていない。ただただこの身体に付いた穢れを洗い落としたい、その一心でタオルに石鹸をつけ、力の限りで全身を擦った。
 朦朧とした中で触れられたと思しい場所も、それ以外の場所も、とにかく洗う。この皮膚ごと削れてしまえとすら願いながら。
 男の身体の中でもっとも敏感で繊細なその部分に至っては、いっそ切り落としてしまいたいくらいだった。
 ワカだけのものだったのに。ワカだけしか知らなかったのに。ワカだけでよかったのに。
 感覚がすっかり遠くなっているせいで普通なら感じるはずの痛みすら感じず、降り注ぐ水の中でひたすらに身を清め続ける。ああ、でも、どうしてだろう。どんなにどんなにこすっても、洗っても、僕の汚れは落ちきらない。
 ワカ以外に触れられてしまった身体は、僕の目には穢れてどす黒く爛れているようにすら思える。
 ――いつしか僕は、自分が元の僕に戻れないことに絶望して、立ち込める湯気の中で嗚咽を上げて泣いていた。
「……カ、ワカ、ごめん、ワカ。駄目なんだ。どんなに洗っても何をしても汚れが取れないんだ。気持ち悪いのが消えないんだ。どうしよう、ワカ、どうしたらいい? どうして……ワカ、ワカ、ワカ……!」
 赦しを乞いたい。でもそんなおこがましい事などできるはずもない。だって僕はワカを裏切ってしまった。裏切らされてしまった。ワカを守る存在でありたかったのに、今では僕自身がワカを傷つける凶器になってしまった。――そうさせられて、しまった。
 脚と頭を抱えて顔を濡らすのが何なのかわからないままボロボロと涙をこぼし続ける僕の背中に、ふと暖かな何かが触れた。
 びくりとして更に身を縮こまらせていると、シャワーが止まって僕の大好きな甘い香りが、ワカの匂いが鼻先に触れた。
「……ワ、カ……?」
「ああもう、こんなぼろぼろになっちゃって……こんなに冷やしちゃ、病気になっちゃうでしょう? 身体、きちんと洗えた? あたしが洗おうか?」
 聞こえてきたのは、いっそ悲しい程に優しいワカの声。
 ワカの声はいつだって僕にはとても優しく響くけれど、いつも以上に柔らかく、優しく、甘い。
「ほら、椅子に座って。いい子だからもう泣いちゃだめ。大丈夫。克己はちゃんとあたしのものだよ。心配しないでいいの。どんなに汚れちゃっても、ちゃんとあたしが綺麗にしてあげるからさ」
 恐る恐る視線を上げた僕が見たのは、とても静かな笑みを浮かべたワカ。
 怒っているわけじゃない。悲しんでいるのでもない。ただ、何かを決意したらしいことが伝わってくる。――その決意が、けっして僕を手放すものではないということも。
 現金極まりないけれど、とたんに僕の心を苛んでいた恐怖心が霧散した。
 だって僕にとって恐いのは、ワカが僕をいらなくなってしまうこと。ワカの傍にいられなくなること。ただそれだけなのだから。だからワカが僕を見放したのでないなら、僕は何も恐いと思う必要はない。
「きれいに、なる? ワカだけの僕に、ちゃんと戻れる?」
「――うん。戻してあげる。だってさ、克己の中で、あの相手はあたしだったんでしょう?」
「当たり前だよ! ワカ以外、いるはずない!」
「なら大丈夫。さ、まずは身体を温めて、洗って、それからだよ」
 そう言ってワカは暖かいお湯を出して僕に掛け、いつも以上に丁寧に僕の身体を洗った。温まったのがよかったのか、それともワカの赦しが僕の感覚を正常に戻してくれたのか、擦りすぎた肌に石鹸が沁みてぴりぴり痛む。でもワカの手は優しくて、触れてくれる事が嬉しくて、痛みは甘い快感へと摩り替わる。
 ――本当に、僕はなんて浅ましいのだろう。
 いつもならほとんど感じない羞恥に顔を逸らすけれど、正直すぎる身体の反応を目の当たりにしたワカは小さく笑った。
「よかった。ちゃんと感じてくれるんだ」
「……僕がワカを感じなくなるなんて、そんなのありえない」
「うん。だからよかった。傷つきすぎてダメになったりしちゃってたら、それこそがあたしを傷つけてたよ?」
 ふんわりと微笑みながら僕を立たせ、ワカは洗面所へと僕を連れ出した。そこでもやっぱりとても丁寧に僕の身体と髪を拭き、僕の手を引いて寝室へと移動する。
 促されるまま裸のままでベッドに横たわった僕の視線の先で、ワカは濡れた服を脱ぎ捨てる。
「ワカ……?」
「ねえ、克己。教えて? 『あたし』が克己の『夢』の中で、何をしたのか」
「……え?」
 一瞬、言われた言葉の意味がわからなかった。きょとんとする僕にクスリと笑ってワカはベッドへと乗りあがってくる。
「そうでしょう? 克己はあたしだけのものなんだよね? ならさ、あれは夢だったんだよ。克己の願望を映した夢。だからいつもと違って感じた。でもあたしは、たとえ『夢の中のあたし』でも克己に勝手に触るのは許せないんだよね。独占欲バリバリだから。――だから、ね。教えて? 『あたし』が克己にどんな事をしたのか」
 ゆっくりと僕に覆いかぶさるようにしながら甘く淫蕩な表情で囁くワカに――僕の理性は太陽の下の氷のように、実にたやすく溶けて消えた。

* * *

「う、あ……ワカ、あっ……!」
「ふふ、こう? こんなだった?」
 『夢』の記憶を辿り、『夢の中のワカ』にされた事を口にすれば、現実のワカがそれをなぞる。『夢』でのそれを上書きするように、伝えたそれより濃厚なものが与えられる。肌を唇が辿ったと言えば、唇だけでなく舌でも僕を味わい、僕の弱いところを甘く刺激し、痕を残す。
 あの朦朧としていた『夢の中』と異なり鮮烈に伝わる快楽は驚くほどにあっさりと僕の記憶の中で塗り替えられる。目で見て確かめられる痕があることも、僕の感覚が現実のものであると知らしめる。
「……それで? ねえ、克己。次はどうされたの?」
 僕の腹部にちろりと舌を這わせながら問われ、『夢』の記憶を辿る。そうだ、この後『ワカ』は……
「手と、口で……シてくれ、た……」
 告げたその刹那、僅かにその瞳に理性の色を映したものの、諦めたのか覚悟を決めたのか、ワカはそっと息を吐き出した。そうしてゆっくりと這いながら後ろへと下がり、『夢』とは違ってすっかり準備を整えているソレに触れ……
「本当、克己のココはいつも元気だよね。ねえ、『夢』の中でもこうだったの?」
「ううん、僕はあの時は本当に駄目で……手でされても全然だったから、だからワカは口でシてくれたんじゃないか」
「そう、だったね。でも克己、大丈夫なの? こうして手で触ってるだけでもいっぱいいっぱいみたいなのに、口でシちゃっても、本当に……イイの?」
 からかう言葉の間も、ワカの意地悪な指は適切に僕の弱点を攻める。情けないくらい喘ぐしかできなくなってる僕は、それでも唇を尖らせた。
「けど、ワカが言ったんじゃないか。僕の『夢』で『ワカ』がしてくれたことを話せって。それに……あんな『夢』より『現実』の感覚の方が気持ちいいのは当たり前でしょう?」
「……うん、ごめんね、ちょっと意地悪言っちゃった。そうだよね。『夢』より『現実』の『あたし』の方がよくて当然だよね」
 まるで何か自分に言い聞かせるように呟いて、ワカはちろりと唇を舌先で舐める。その官能的な動きに、僕の口の中は一気にカラカラに乾いてしまう。
「ワ、カ……」
「ん? なぁに、克己?」
「ね、キスして? 僕、『夢』の中ですごく寂しかったんだ。どんなにお願いしても『ワカ』は僕にキスしてくれなかったし、好きって言ってくれなくて。抱きしめたくても腕は動かなかったし、身体もほとんど動かなくて……本当にごめんね?」
「――どうして謝るの?」
「『夢』、だけど、ワカに全部してもらっちゃったから。ちゃんと気持ちよくしてあげたかったのにしてあげられなくて……」
 僕の下半身近くにいるワカの髪にそっと触れる。その指を頬へと滑らせるとほんの少し甘えるように擦り寄って、だけどすぐに緩く首を振った。
「だめだよ、克己。『夢』を再現するんでしょう?」
「え……?」
「克己は指一本動かせなかったんだから、今も動かしちゃだめ」
「えええええ! そんな、酷いよ!」
「駄目ったら駄目。言うこと聞かないなら縛っちゃうよ?」
 じっと見つめてくる目は驚くほど真剣で、従わなければ本当に縛られてしまいそうだと咄嗟に理解した。
「う……わかった」
 渋々と手を下ろし、ワカの代わりにシーツを握る。従順な僕に満足したのか淡く微笑んで、ワカはすりと僕自身に頬を寄せる。そして舌先で敏感な窪みをつうっと辿った。
「うあっ!」
「克己、可愛い。――ねえ、克己。あたしでいっぱい気持ちよくなってね?」