君だけの僕 ― 凍える闇夜に光を求む 05 ―
理由なんか知らない。知りたくない。考えたくない。ただ、この声から、この匂いから、この存在から逃れたかった。今すぐこの場から消えて、ワカの腕の中に戻りたかった。僕にとって唯一全てから守られ、赦され、愛される、あの場所に。怖い怖い怖い、助けてワカ、僕をここから助け出して。お願いお願いワカ、僕はワカだけでいいんだ。ワカがいなきゃ駄目なんだ。
「――える……? ……や、おい宗谷、しっかりしろ!」
唐突に意識へと滑り込んできた山上の声に、僕ははっと顔を上げた。
混濁した視界に一瞬呆けたものの、程なくそれが酷く緊張した顔の山上だと気づく。そのとたん、無意識に止めていたらしい呼吸が回復して、小さく咽た。
「宗谷、俺が誰かわかるか?」
「……や、まかみ」
「よし。ならもう一つ。今何があったかわかるか?」
「い、ま……?」
ぼんやりとした頭を無理やり動かそうとするけれど、とたんにさっき食べたばかりの食事が喉元までせり上がってくるのを感じ、口元を押さえて緩く首を振る。それだけで僕の状況を理解してくれたのだろう。小さく「そうか」と呟き、山上は更に問いかけを重ねた。
「宗谷。俺はお前のために何をすればいい?」
「……ワカ。ワカを呼んで。ワカ、ワカ、ワカ……」
その声は自分でもかろうじて聞き取れるくらい微かなものだった。けれど山上にはきちんと届いてくれたらしい。
「どうすれば呼べる?」
「ケ、タイ。ポケット、に」
「わかった。触るぞ?」
なぜかわざわざ宣言してから僕に触れ、ジャケットのポケットから僕の携帯電話を取り出す。基本的に誰でも使えるようにと作られている機械だから、難しく考えなくても操作方法はわかる。アドレス帳か通話記録か、きっとそのどちらからかワカを見つけたらしい彼は、ためらいなく通話ボタンを押した。
「宗谷克己の携帯をお借りしてます、同僚の山上です。宗谷の恋人のワカさん、ですか?」
違うよ、ワカはワカだけどワカって呼んでいいのは僕とワカの姉妹たちだ。
言ってやりたかったけど、歯ががちがちと鳴っていて言葉にならない。僕は――僕は一体、どうしてしまったんだろう……?
「――ええ、そうです。はい、原因も、多分わかっています。……お願いできますか? どれぐらいで…………ああ、そういうことですか。わかりました。では、十四階まで上がって来てください。ドア開けておきますんで」
馬鹿だな、山上。ドアはセキュリティがあるから開放しちゃだめじゃないか。そもそもワカは部外者だから僕が出て行くべきで――
「はい、代わりますね。――宗谷。お前の恋人だ」
僕と目を合わせてそう告げ、僕の耳に携帯電話を当てる。間を置かずして愛しい声が聞こえてきて、泣きそうになってしまった。
『克己? あたしよ。聞こえる? あたしがわかる?』
「ワ、カ」
『うん。よかった。ちゃんと反応できてるね。すぐそっちに行くから待ってて。今、エレベーターホール。ちょうど下りてきたのがあるから、それに乗るね。もしかしたら通話切れちゃうかも知れないけど、近くにいるから大丈夫だよ。――今の音、聞こえた? エレベーターの音。十四階押したからすぐだ――』
ぷつ、と音を立てて通話が切れる。それまでの間、僕はただワカの言葉にうん、うん、と、小さく頷くのが精一杯だった。
視線を上げた事で、通話が切れたのがわかったのだろう。山上はさっきまでの硬い表情とは打って変わって柔らかく微笑み、近くにいたのだろう誰かにドアを開けてくれ、と指示を出していた。
「やまか、み」
「うん。宗谷。大丈夫だ。わかってる。……ごめん、俺がちゃんと対応するべきだった。もっとちゃんと考えて動いてたら防げたってのに――本当、ごめん」
僕を宥めるように微笑んだ彼は、しかし苦しげに眉根を寄せると唐突な懺悔の言葉を口にした。
「? 山上……?」
どうして彼が謝るのだろう。理解できず見上げている僕の耳に、遠くから近づいてくる小走りの足音が届いた。
それだけで、わかった。
「ワカ」
その存在を認識したとたん、かろうじて保たれていた呼吸が一気に楽になった。冷え切っていた全身に血が巡るのがわかる。
ああ、やっぱりワカ。君は僕を救ってくれるただ一人。僕が必要とする唯一。僕の救い主。僕の大切な大切な――恋人。
「克己!」
見知らぬはずのオフィスに飛び込んできたワカは、僕の居場所を確かめるためだろう、束の間速度を緩めた後、迷いのない足取りで僕のところまでやってきた。その姿が見えたとたん、落ち着きかけていたはずの恐慌がフラッシュバックを引き起こす。――いびつにゆがんだ真っ赤な唇。茶色いくるくる巻いた長い髪。真っ赤に塗られた爪。香水とタバコとアルコールの混じった臭い――ああだめだ、あのヒトがまた僕を、ああ、ワカ、お願い、僕は僕は僕は――
「……カ、ワカ、若菜、お願い助けて! あのヒトが、あのヒトが、あのヒトが――!」
「克己、大丈夫だよ。あたしはここにいる。ここにいるのはあいつじゃないし、あんたの事は誰からもあたしが守ってあげる。誰にもあんたを傷つけさせたりしない。……ほら、ちゃんとわかってるんでしょう? あたしは誰? あんたの何?」
愛しい声が囁き、慈しむような微笑を浮かべてワカが僕をその腕に包み込む。胸いっぱいにワカの香りを吸い込んでようやく緊張が解けた僕は、全身から力が抜けてワカに凭れかかる。
「ワカは、若菜は僕の恋人だ。僕を何からも守ってくれる僕だけの恋人だ」
くす、と耳元で笑う声がして、まるで赤ん坊を宥めるようにとんとんと背中を叩かれる。その扱いに少しばかり不満に思うけれど、今の状況では文句も言えない。
そうしてしばらくの後、僕らの様子を見ていたらしい山上へとワカが顔を向けたのがわかった。
「お騒がせしてすみません。――山上さん、ですね?」
「はい。こちらこそお呼びたてしてしまって……また、事態を未然に防げず、申し訳ございませんでした」
苦渋に満ちた声に、僕はまた疑問を覚える。どうして山上がそんな事を言うのだろう? 事態って――僕がパニックを起こした以外に何かあったっけ?
「そう……あなたは、知っているのね? 誰が、あたしの克己に触ったのか」
「ええ。必要ならいくらでも証言できますよ。あの夜、こいつがぶっ倒れた場面を見たのは俺だけじゃない。北さんもいたし、ここにいる中にも見てたやつらは何人かいます。――てか、ぶっちゃけ犯人そいつなんですけどね」
山上が指差した先は、ワカが僕の頭を自分の肩へと押し付けたせいで見ることができなかった。だけどワカがそっちを見たのと、それがワカを怒らせた事だけは、触れあう身体からはっきりと伝わってきた。
「――っ! な、によ。なんだって言うの? 杏奈がなんだってのよ!?」
ヒステリックな声が耳に届いた瞬間、またしても悪寒に襲われた。指先でワカにしがみつけば、僕を抱きしめるワカの腕に力が篭る。
情けないとは思うけれど、それでもワカが僕を守ろうとしてくれているというその事実が僕を安らがせた。
「なんだってのよって、自分が何をしでかしたのかわかってないのか? ――幸か不幸か俺は女友達が多くてね。おかげで色々な子たちと知り合う機会もあったんだけどよ、そんな中でさっきの宗谷によく似た反応をする子とも、何度か会ったことがある」
これまでの付き合いの中で一度も聞いたことがないくらい苦い声だった。
「お前が自分のした事に対して良心の呵責を抱いてない事は今の態度でよくわかったよ。――それがどれほど卑劣で下劣なことなのか、理解していないこともな」
「ひ、どい……山上さん酷いです! 杏奈、何も悪いことなんてしてないのに!」
ざわりと周囲がざわめく。どうやら山上の言葉で周囲の人たち『事情』とやらを理解して、それゆえにあの嫌な声の主の言葉に批難を覚えているらしい。
「呆れた。あなた、自分が犯罪を犯したってこともわかっていないのね」
「は? ていうか何なの、あんた。どうして宗谷さんのこと抱きしめてるのよ? まさかあんたみたいなのが宗谷さんの恋人なわけないわよね? ていうかありえないし! こんなブス、宗谷さんに相応しくな――」
「――ワカを侮辱するな!」
一瞬で怒りがボーダーを吹っ切った。ワカの腕の中で身体を反転させると、僕はワカを貶したその相手に対峙する。
「ワカは僕の恋人で、僕を救い上げてくれた何より大切な人で、僕が僕であるために必要な唯一だ。君がどこの誰かなんて知らないけど、それこそ君如きがワカを嘲るだなんて……身の程を知れ」
アイメイクで縁取られた目が驚愕に見開かれる。香水の臭いと赤い唇、そして肩より長い栗色の巻き髪。ダレカを思い起こさせるその顔に覚えるのは嫌悪感だけ。
「……荒療治が過ぎたみたいね」
ぽつりとワカが小さく零す。その意味を理解するより先に、いつ割って入ろうかと待ち構えていたのだろう二宮課長代理がぱん、と手を打った。
「はい、そこまで。とっくに始業時間は過ぎているし、そもそもここは会社だよ。状況は大体読めたけれど、だからこそ余計にこういった場で話し合うべきじゃない。――宗谷君、部長には私から掛け合うので、しばらく自宅で作業を進めてください。必要な環境は前回同様にセキュリティ担当者と相談して準備しましょう」
「え? ……あ、はい」
あまりにも唐突な状況の変化についていききれず、僕は言われるがままに頷く。山上の手を借りて立ち上がり、ワカを立ち上がらせると、起動させたまま放置状態になっていたパソコンの電源を落とした。
「では、本日は帰宅させていただきます。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いします」
二宮さんに向かって深々と頭を下げた僕の隣でワカも頭を下げる。まるで奥さんみたいだ、と考え、実質そんなものだっけ、と思い直す。ほんの少し、面映くなった。
「いえ、私ももっと早くに手を打っておくべきでした。前回の事があったのに……」
苦い息を吐き、二宮さんがあの忌々しい人物へと視線を向ける。そして、やはり淡々とした調子で告げた。
「風間さん。あなたも一旦自宅待機してください。事情が事情ですし、今後の対応や方針を協議する必要がありますので、こちらから連絡を入れるまで出社は控えてください」
「……はい」
その時、その人がどんな顔をしていたのか、僕は知らない。何しろ僕はその時にはすでにワカと共にオフィスのドアへと向かっていたし、欠片ほども興味がなかったのだから。
だけど『事態』とやらはそれでは終わらなかった。
僕が自宅で仕事をするようになって一ヶ月近く経ったその日、僕たちの家に招かれざる客がやってきたのだ。