かぶ

君だけの僕 ― 冬その二 04 ―

「ワカ……ごめん、結構無理。そろそろ吐きそう」
「うぁ、来ちゃった? でももう少しがんばれる?」
「できれば早く終わらせたい。もう、なんでもいいから終わらせてください」
 その言葉は、ワカではなく大志さんに向けてのもので、聡い彼は了解、と小さく答えてくれた。
「……宗谷があのような状況ですので、ひとまずこちら側の話をさせていただきましょう」
 かさかさと、紙が擦れる音がする。
「そちらの要求は宗谷が責任を取ってお嬢さんと結婚し、子供を育てる、という事でお間違いないですか?」
「さ、最初からそう言っておるだろう!」
「それは、宗谷が家庭内暴力の被害者であり、その加害者である宗谷の母親は先述の罪による前科を持つ人間であっても問題ないという事ですね?」
 気分が悪いっていうのに思わず笑っちゃうくらいすっぱりと核心を切り出した大志さんに、例の親子はまたしても言葉を失ったようだった。
「宗谷の女性恐怖症はこの母親から受けた暴力が原因です。彼女は若くして宗谷を妊娠した後、父親である男性に捨てられたためシングルマザーとなりました。同時に親からも体裁が悪いという事で縁を切られ、水商売に身を落とした。その後、男性に依存せずには生きる事ができなかった彼女は恋人を作っては宗谷を放置し、その恋人に別れを切り出されるたび宗谷のせいだとして酷い暴力を浴びせた。……その彼女は、水商売をしていたせいか、派手な化粧を施し、当時にしては珍しく髪を染め、長い髪を巻いていました。ええ、まるであなたのような見た目だったわけです」
 またもや室内がしんと静まり返る。
 正直、あの人のことは顔なんてほとんど覚えていない。でも、長いくるくるした髪と白い顔、そこにくっきりと引かれた紅のイメージは、僕の頭の中にこびりついて消えてくれない。口紅の色が赤だとかピンクだとか、そんなのは僕にとって些細な事。ただただあの人を思わせる存在が、恐怖でしかなかった。
「こちらが担当医による診断書です。今でこそ女性相手でも比較的普通に対応できるようになってましたが、当時の宗谷は『自分より年上にみえる女性』すべてを恐れていました。それが養護施設の職員であろうと、看護師であろうと、教師であろうと、学生であろうと、関係なく。唯一の例外が、彼が今しがみついている片山です」
 そう。僕が受け入れられたのは、ワカただ一人だった。
 あの頃のワカが男の子っぽかったからなのかもしれない。他に何か理由があったのかもしれない。
 だけど今も、昔も、そしてきっと今後だって、僕が何もかもを委ねられるのは、この世でワカ一人だけなのだ。
「そ、そんなの……そんなの知らないし! 第一それが本当だなんて証拠、どこにあるのよ! そんなでっち上げ、杏奈信じないんだから!」
「……うわぁ、まじウゼぇ」
 ぼそりと漏らされた大志さんの本音に、僕とワカは思わず笑ってしまった。
 幸いにもテーブルの向こう側にいた二人には聞かれなかったらしいけれど、それでも僕たちの態度には気づいたのだろう。
「何を笑っている!」
「いえ、その……ええと、証拠、との事ですが、本当に見ます? というかあなた、克己と本当に愛し合ったっていうのなら、見ているはずだけど?」
 どこか小馬鹿にした物言いに、彼女はまた憤りを募らせたようだった。
「ワカ。多分僕、ちゃんと服、脱がされてない。ワカだって覚えてるでしょう? 僕が見た『悪夢』を上書きしてくれたの、ワカなんだから」
「うん、まあ、そうなんだけどね……」
 ちらりと目だけでワカを見ると、ほんのりと耳を染めている。
 まったく、さっきまでは強気に結構な事を言ってたはずなのに、こんな時だけ可愛くなるんだから。
「じゃあ、見せる? 本当は克己の身体、あんなのには見せたくないんだけど」
「僕だって見世物にはなりたくないけどね。でも、仕方ないでしょう? それに――多分だけど、反応今から想像つくし」
 小さく笑って、僕はワカをじっと見つめた。
 やっぱりまだ気遣わしげではあったけれど、僕を見つめ返して一つため息を吐き、ワカはおもむろに僕のセーターの裾に手をかける。
「証拠、とおっしゃいましたね? では、ご覧いただきましょう」
 硬い声で告げると、もう一度僕に本当にいいの? と目で問うてくる。心配性な恋人にこくんと一つ頷き返し、僕はワカの手にすべてを委ねた。
 暖房を入れてはいてもひんやりとした空気が素肌に触れ、思わずふるりと震える。
「じゃ、腕上げて」
「ん」
 こうして脱がせてもらったり、逆に服を着せてもらったりするのはいつもの事だからすっかり慣れている。
 ほとんど密着したままで手際よく服を脱がされる様を、大志さんが「この馬鹿っプルが」とでも言いたげな目で見ているのが見えた。
 けれど本当に見せたいのは僕らの仲の良さじゃない。
「っ――! な、なにそれぇ、まじキモっ……!」
 ――投げつけられたその言葉が、すべてだった。
 僕の背中には、殴られたり、物をぶつけられたり、タバコの火を押し付けられたりした痕が幾つも残っている。
 もちろん成長する過程で多少薄れはしたけれど、それでも酷く引き攣れた皮膚が自然に完全に元に戻る事はありえない。手術をすればいいのかもしれないけれど、そんなことにお金を使いたくなかったし、その間ワカと離れていなければならないのが苦痛すぎて無理だった。
 そもそもワカは、この傷を厭ってはいない。
 だから僕にとって、こんなものはなんでもないのだ。
「これが証拠ですよ。なんでしたら、当時の判例集や宗谷の写真もご覧になりますか? まだ痣も黒々としてましたし、化膿した火傷については結構グロかったりしますけど」
 さらりと告げつつブリーフケースに手を伸ばした大志さんに、父親の方が不要だと告げる。
「ご覧のとおり、彼の背中は傷だらけなので、こうして背中に腕を回せば必ず指先が触れて気づくはずなんですよね。なのにお嬢さんはご存知なかった。……まあ、そうやって抱き合うような形じゃなくてもしようと思えばできますけど、本当に恋愛関係にあるのだと仮定すれば、そういう形でのセックスって、あんまり愛情感じられないですよね」
 言葉のとおり、僕の背中に腕を回し、指先で僕の傷跡に触れながらワカはまたしてもどぎつい事をさらりと告げる。その指先の動きに、僕は不謹慎だと知りながら、熱がこみ上げてくるのを止められない。
「ワカ、駄目。それ以上触られたら、ちょっと真剣に困る」
「……お前な、時と場合を考えろ」
 正直に告げた僕に反応を返したのは大志さんだった。
「だって、仕方ないでしょう。僕、ワカにしか反応しないし、その分ワカだと反応しっぱなしで。高校生の頃なんか、名前呼ばれただけで手の施しようがなくなっちゃった事もあるんですよ?」
「――うん、克己。お願いだからTPO考えて喋ろうね。さすがにあたしがいたたまれなさすぎる」
 顔を真っ赤に染めたワカは、有無を言わさずセーターをずぼりと被せた。その乱暴なしぐさに怒らせた? と一瞬慌てるも、首まで真っ赤に染めたワカの姿が目に入ったとたん、僕はほっと安堵して思わずぎゅっと抱き締めてしまう。
「あー、で、ですね。これでもまだ、宗谷との結婚を希望されますか? とりあえず、結婚した場合、セックスレスになるのは確定ですよね。宗谷は片山にしか反応しないとの自己申告ですし、お嬢さんだってキモいと思うような身体の男性と性交渉するのは苦痛でしょうから」
「し、しかし……しかしだな……」
「ああ、あと、念のために産婦人科からの診断書をいただけますか? こうして押しかけて来るからには、もちろんお持ちですよね?」
 なんだかとてつもなく今更な気がするけれど、そういえばそうだ。
 僕らは彼女が本当に妊娠しているのかどうかという証拠をまだ見ていないし……
「……四週間って、何かおかしくない?」
 はたと気づいてしまった。
「な、何がおかしいって言うんですか!?」
「え、だって、確か妊娠周期の数え方って、最後の月経が始まった日が起点、だったよね? ならさ、大志さんが言ったようにほぼ一ヶ月前の壮行会の日に何かがあったのだとしたら、四週間って短すぎると思うんだけど」
 結婚も子供もまだ先だと決めているからこそ、そのあたりの知識はきちんとつけている。ワカはきちんと基礎体温をつけているし、僕も定期的に見せてもらっては、絶対じゃないけれど、一応ハメをはずしてもいい日を把握してもいる。
 だから気づいた。気づく事ができた。
「君の周期なんて知らないし、興味もないけれど、仮に一ヶ月前に見たあの『悪夢』が現実なのだとしたら、最低でも五週間か六週間にはなってるはずだ。まさか月経が始まったその日にそんな事をして、その挙句奇跡的に受胎した、とか言わないよね?」
 というか、その状況だとどう考えても血みどろになってたはずだし。
 首を傾げつつの呟きに、傍らでワカが苦笑する。
「ああもう、せっかくいつ突っ込もうかってタイミング狙ってたのに、克己の方が先に言っちゃったか……」
「……えと、ごめんね?」
「克己は謝らなくていいよ。ただ――そちらさんの弁明は聞きたいかな」
 ワカが視線を向けた先では、件の親子がものすごい形相になっていた。
「お、お前……妊娠は嘘だったのか!?」
「ち、違くて! ちゃんと検査薬試したし、あの日も薬で排卵日合わせてたし!」
「それで犯罪者の子のガキを孕んだってのか! しかも神沢とは何の関係もない男の……! お前は一体何を考えてるんだ!」
「だって……だって、知らなかったし! あ、杏奈、騙されただけだもん! 宗谷さんが嘘吐いてたのが悪いんだもん!」