かぶ

君だけの僕 ― 冬その二 05 ―

 唐突に勃発した父娘争議に、僕たちは三者共々げっそりと顔を見合わせた。
「お静かに!」
 ぱん、と手を打って声を上げた大志さんに、騒動が一旦止む。
「とにかく、まずはお嬢さんの妊娠が事実かどうかを確かめましょう。その上で、万が一にも妊娠が真実なのであれば、その後どうするのかを相談――」
「そんなもん、堕ろさせるに決まってる! 誰がそんな奴の子供など生ませるか!」
「――ねえ、大志さん。そこの人、ちょっと訴えてもいいかなぁ。いいかげん暴言が過ぎると思うんだけど」
 静かに、とても静かに、ワカが呟く。
 その声は不思議とその場にいた全員の耳にすんなり届き、男がまたしても顔をどす黒く染めた。
「貴様――人を馬鹿にするのもいいかげんにしろ!」
「馬鹿にしてるのはそちらでしょう? 勝手に克己が神沢家に縁故があるって思い込んだ上、ホルモン剤だか排卵剤だかで排卵日調整した上で薬使って強姦して、その上こっちの都合も何も聞かずに押しかけて好き勝手言って。刑事にはならないだろうけど、民事なら問題なく立件できるはずですよ。そもそも婚約までしている交際相手のいる人間を横から掠め取ろうって行動が民事訴訟の対象なはずだし。克己の無実については公的機関を介してきちんと証明できるから問題ないしね」
「……婚約だと? そんな事実、どこにあるってんだ!?」
 滔々と語るワカに、父親の方が唸るように反駁する。それに対しては、第三者でもある大志さんが面倒くさいって表情を隠しもせずに答えを返した。
「どこって、仲間内では周知の事実ですよ。二人は養護施設にいた頃から仲がよくずっと一緒にいましたし、宗谷の女性恐怖症の緩和に一番協力していたのが片山です。正式に交際を始めたのは高校に入ってしばらくしてからですが、それと同時に同棲も始めてます。その後も、宗谷の精神的な事情により籍こそ入れていないものの、二人は長年生活を共にしてますし、実際に片山は宗谷の扶養家族として届出を出しているはずですよ。今年は片山も就職したので、扶養からは外れましたけどね」
 大志さんの言うとおり、僕たちはいずれは結婚しようと約束しているし、一緒に生きていく未来に微塵の恐れも抱いていない。
 ただ、僕がまだダメなんだ。ワカがあの人――僕の母親と同じ年齢になっても大丈夫だっていう、自信が持てない。
 僕の恐怖症の引き金が性別と見た目と年齢層にある事から、僕が救い出された時の母親の年齢をワカが超えるまで待ってほしいと、酷い我侭を言っていて、そんな僕を、ワカは仕方がないなぁと笑って赦してくれている。
 だからそれまでに僕はワカをきちんと養うだけのものを作っておきたいし、いずれ産まれるかもしれない子供たちのためにも準備を万全に整えておきたいのだ。
「また、先ほどの暴言についても――若菜」
「あ、はい」
 大志さんの言葉に頷いて、僕が隠しておいたボイスレコーダーをワカが引っ張り出す。
「――こちらですべて、記録させていただいていますので、証拠としては十分でしょう」
 目の前に出された小さな機械に、彼らは見る見る顔色を喪失する。
「……貴様ら、脅しているつもりか」
「脅しだなんてそんな! ただ、こちらは物事が不利にならないように、防御策を練っているだけです。私、何があっても克己を手放すつもりはありませんので。そちらが攻撃に出ると言うのなら、こちらも相応の対応をするってだけですよ」
「っ……! もういい! 帰るぞ杏奈!」
「えっ、ちょっとパパぁ!?」
 これ以上反論のしようがなかったのか、父親は娘の腕を掴むと玄関へと向かう。
 その背中に、ワカが呼びかけた。
「風間杏奈さん。もし妊娠が本当で、その子が本当に克己の子で、あなたが本気で産む気があるのなら、それはそれでかまいません。でも、産んだ子供に酷い事をするくらいなら、あたしたちにください。克己の子が克己みたいな目に遭わされるのだけは、あたし、絶対に赦せないんで」
「……そんな事、しないもん」
「ええ、それでも。子供を少しでも重荷に感じるなら、産む前でも、産んだ後でもかまわない。手放す決断をしてください。あたしはその子が克己の子なら、母親が誰だろうと絶対に愛するし、幸せにするから」
「ワカ……」
「だから、お願いします。克己の子を、不幸にしないで」
 切々と胸に迫るような声でワカが告げ、深々と頭を下げる。
 そんなワカに「馬鹿じゃない」と呟くと、彼女は父親に引きずられるままに玄関から出ていった。


 騒々しく騒動の元が帰ったあと、必要ないとは思うが、と言いつつ念のための善後策を練り、また何かあったら連絡しろと言い残して大志さんは帰っていった。
 それを見送り二人きりになった部屋で、僕はティーカップを片付けるワカの背中をまだぼんやりとしたまま見つめていた。
 頭の中は、完全に飽和していた。
 よくわからないままワカだけの僕じゃなくなってしまっていたらしい事が一番の衝撃ではあったけれど、それと同じくらい、よく知らない人との間に子供ができてしまった可能性、そして立ち去る彼女にワカが投げたあの言葉――あれは、本当に本心からのものなのだろうか。
 ワカが僕を愛してくれているのも、僕の過去について未だに消しきれない怒りをこっそり抱え込んでいるのも知ってはいた。だけどあの言葉は、あまりにも予想外がすぎた。
「……で、何をそんなに考え込んでるの?」
 ことん、とカフェオレの入ったマグを僕の前に置いて、ソファに座る僕の足元にワカが腰を下ろす。甘えん坊の猫のように僕の膝に懐き、どこか面白そうな目をして見上げてくる彼女に、僕は戸惑いを飲み込みきれないまま口を開いた。
「ワカは……いいの?」
「? いいって何が?」
「何って……ぜんぶが」
 まるで子供のような答えだとは思うけど、それ以外に言いようがなかった。
「んー、まあね、確かにわだかまりが全くないって言ったら嘘になるよ? でもね、克己があの人に想われたのも、無理やり奪われちゃったのも、克己のせいじゃないでしょ?」
「それは、まあ、そうだけど……」
 どうしても歯切れの悪くなる僕に、ワカは一つため息を吐いて僕の頬へと手を伸ばす。
「ていうか、忘れちゃってよ。あれは悪い夢。あの人に迫られるのが苦痛で、それが夢になって出てきただけ。――克己が覚えてていいのは、あたしだけ。他の女の人なんてね、克己の世界には必要ないんだよ」
 甘く甘く囁く声に頷きかけて、でも、と小さく呟く。
「む、まだ何か引っかかってるのか。――ああ、もしかして子供のこと?」
 確認するように見上げてくる瞳にこくんと頷いた。
 ワカがああいったことで嘘をつく人じゃないのは僕がよく知っている。
 ワカは幸運にも実の親から暴力を奮われはしなかったけど、大志さんと同様に、僕を筆頭としてそういう経験を乗り越えてきた子供たちを何人も見てきている。
 だから少しでもそうなる可能性がありそうな子を救いたいのだろう。
 でも、だけどそれでも、本当に割り切ることができるのだろうか。
 愛する人の子供だからこそ、複雑な感情を持て余すケースは決して少なくないのだ。
「正直、本当にあの人が子供を連れてきたら、多分平静じゃいられないと思う。あたしもまだなのにって思うし、嫌なことがあったらあの人に責任なすりつけちゃうとも思う。――でもね、嫌なの。克己の子が……少なからず克己の面影を持つだろう子が昔の克己みたいな酷い目に遭わされるかもしれないって方が、もっともっと嫌なの。だから……だから、あたしは大丈夫」
 何かを覚悟するような目でそう告げて、それにね、とワカは笑う。
「その子もあたしの子にしちゃったらさ、結局全部あたしのものになるじゃない。克己のことだからお願いしたら本当の母親のことなんて忘れてくれるでしょう? そもそもあたし、克己にだけはやたら独占欲強いから、他の女性が克己のミニチュアを育てるのもあんまり嬉しくないんだよね。あの人が本当に克己の子を産んだら、多分あたし、プチストーカー化しちゃうかも」
 ふ、と浮かべられた笑みに、仄かな陰を見る。
 これだから、目も、手も離せないんだ。僕がワカを必要とするのと同じくらいか、もしかするとそれ以上に、ワカは僕を必要としている。これはうぬぼれとかじゃない、列記とした事実だ。
 ワカは実の親から僕のように酷い目にあわされはしなかったけれど、置いていかれてしまったことが傷になっている。
 だから、僕なのだ。ワカがいなければどうしようもない僕だから、ワカは僕を必要としてくれる。僕がひたすらにワカだけを求めるから、ワカしか見ていないから、だから安心してくれる。
 相手を絶対に信用できると保障されていない限りは決して心を赦さない怖がりな少女。それがワカの本質で、それゆえに僕を自分の元に引き止めるべく、見せ掛けの強さを手に入れた。
 つまるところ、僕たちは割れ鍋に綴じ蓋なのだ。
 自分だけを愛してくれる相手を求めるワカと、ワカ以外の女性が根本的に駄目な僕。
 ――もしかすると、僕たちの関係は正しい恋愛関係ではないのかもしれない。けれど僕はワカが好きで、大切で、愛しくてたまらないし、ワカも僕の面倒をみることで幸せを感じられるのだからきっとこれでいいのだ。
 あの日、あの時、あの場所で出会ったのは、偶然などではなく運命だったのだと、二人して胸を張って言える。
 それくらい僕たちは、お互いが必要で、お互いだけを求めている。離れるなんて考える事もできないし、どうしようもない
 きっと僕の子供ができたりしたら、もしかしなくてもワカはその子を大切に慈しむのだろう。
「……本物の僕がそばにいるのに?」
 仮定の話だってのに、ワカの意識が僕以外に向けられるかもしれないって考えるだけですごく嫌な気分になってしまった。
「ていうか、そうだよね。僕らの間に子供が生まれたら、ワカ、僕じゃない子を見るようになっちゃうんだよね……」
「んー、そりゃ、克己の子だし。ていうか克己だってその子の事、可愛がるんでしょ?」
「多分。でもきっと、ワカほどじゃないよ」
「……つくづくあたし達って、親向きじゃないね」
 これまでと何ら変わらない結論を出して、ワカが僕の膝に頭を乗せる。柔らかな茶色の髪をそっとかき混ぜながら、僕はため息のように告げた。
「別に、それでいいんじゃないのかな。これからもずっとワカは僕だけのもので、僕もワカだけのもの。子供ができたら、そりゃ妥協は必要になるけど、でもきっと何も変わらないんだ」
 そう。いつでも、どんな時でも、君は僕だけの君で、僕は君だけの僕。そうある限り、きっと僕らはずっと幸せでいられるんだ。