かぶ

君だけの僕 ― 春の光に雪は溶けて 01 ―

 会社からの呼び出しがかかったのは、一際寒さの厳しい二月半ばのことだった。
 話の内容はなんとなくわかっていた。僕の処遇をどうするか、という件以外の何があるというのだろう。
 ほんの少し気分を重くしながらも休みを取っていたワカに見送られて、お昼過ぎの人気もまばらな電車に乗って会社へと向かった。
 本社に着くと、指示されたとおりオフィスには顔を出さず、面談室の固まっている一角に足を運ぶ。その途中、何人か僕を知るらしい人たちが僕を見て、驚いた顔をしながらも挨拶の言葉をかけてくるのにほんの少しくすぐったく思いながら言葉を返した。
 そうしてたどり着いた面接室には、指定された時刻の十分前だというのに、すでに二宮課長代理と――なぜか、北さんがいた。
「お久しぶりです」
「うん、久しぶり。見た感じ元気そうだね」
 ほっとしたように言われて、僕ははい、とひとまず頷く。頷いて、やつれたり病的に見えるような事が何かあっただろうかと、内心ではてと首を傾げた。
 けれどそんな僕の見た目よりも気になることがあったので、僕は率直に問いかけた。
「ところで、その……どうしてここに、北さんがいるんですか?」
「ああ、何、大した事じゃない。お前の進退に一口噛ませてもらおうかと思ってるだけだ」
「……十分大した事じゃないですか」
 にかっと笑って告げられた言葉に、僕は思わず眉をしかめていた。
「ええと、つまり僕は……」
「いえ、違います、違います。そうじゃないです。うちは宗谷君を手放すつもりはありません」
「あ、そう、ですか」
 すっかり誤解してしまった僕へと言い切ってくれた二宮さんの言葉に、僕は深く安堵する。けれど次の言葉でその安堵も半分くらい吹き飛んでしまった。
「ただ、今後の勤務形態をどうするか、というあたりで色々ありまして。その、やっぱりね、入社三年で二回も……というのは。もちろん宗谷君が悪いわけじゃないとわかってはいても……ですね」
「はぁ」
 言いにくそうに口を濁す二宮さんに、僕もあいまいに言葉を返した。
 それをどう取ったのか、ハッとした顔になった二宮さんは八の字眉を更に下げつつ口を開いた。
「すみません、先にお話しておくべきでしたね。風間の処遇についてですが――」
「? ええと、あの、カザマ……さん? ですか?」
 あまり聞き覚えのないその名前に首を傾げる僕を見て、目の前の二人がわかりやすく苦笑を漏らす。
「宗谷らしいっちゃらしいけどな……」
「そうですね……風間は、この職場に配属されて以来、君につきまとっていた女性社員です」
 わかりますか? と尋ねられても、僕はやはりあいまいに笑うしかできない。というのも実のところ、年末以来どうして自宅勤務をしているのかというその根本的な原因を、僕はよく理解していないからだ。
 ただなんとなく、前に同じ状況になった時は、職場にやたら迷惑をかける人がいて、僕自身もその人にひどく迷惑をかけられたのが原因だったから、今回もそういった事の回避策としてなんだろうなとは思っていた。けれど、その具体的なところがさっぱりだったのだ。
 この事をワカに訊いてもワカは困ったように笑うだけで答えてくれないし、だからといって会社の同僚にわざわざ訊くのもおかしい気がして、結局僕は何も知らないままでいた。
 そんな事情を何となくでも察してくれたのか苦笑を深めた二宮さんが言葉を続けた。
「現在は自宅療養という形をとっていますが、実質は自宅謹慎です。本人とも話をしまして、仕事に復帰する意思はあるようなので、別の部署の総合職従事者として新年度から働いてもらうことになっています。ですので宗谷君が風間と顔を合わせる事は、めったな事ではないと考えてください」
「はい」
 返事をしつつもそこに実感が篭ってないのは顕著だったようで、二宮さんと北さんは再び苦笑を浮かべて僕を見た。
「とにかくね、これまでの二件の経緯を考えた結果、言い方は悪いけれど、君には皆とは少し離れた場所で作業をしてもらうのがいいだろうという判断になりました。とは言っても同じ社内の別の部屋では結局毎日顔を合わせる羽目になるかもしれないし、だからと言って別にオフィスを用意するのも大変だ。そもそも作業環境を新たに整えるのも手間隙がかかってしまいます。――そういうわけで、宗谷君には曜日ごとに分けて通勤と自宅勤務をしてもらうようにしようかと思っています。社員としての扱いは変わりませんし、お給料も同じです。もちろん、こちらで人手がどうしても必要な場合は通常勤務に戻ってもらうことになりますが、そういうケースは年に数度程なので問題ないでしょう」
「ええと……。あの、それでいいんですか?」
「はい。何しろ宗谷君には上層部の口出しを封じ込めるだけの実績がありますからね」
 そう言ってにっこり笑う二宮さんに、僕は言いかけていた言葉を呑み込む。
 正直、僕の後ろ盾が理由でということなら断るべきだと考えていたのだ。
 だけどこうもきっぱりとそうではないと言われてしまっては、下手に藪を突かないでいる方がいいようにも思えた。
「――って、おい、俺にチャンスは与えちゃくれないのか?」
 と、これまで傍観者に徹していた北さんが、唐突に口を挟んできた。
「おや、宗谷君はすでに今後の対応について納得してくれているので、北の話は不要だろうと思ったのですが……」
「お前、相変わらず人の好い顔して腹黒いよな……」
「人聞きの悪い事は言わないでください。私は効率重視で動いているだけです」
 遠慮のない言葉のやり取りに何やら不穏な気配が混じっていることに気づきながらも、僕は北さんに向き直る。
「それで、北さんはどのようなご用件なのでしょうか?」
「やっぱお前は二宮と違っていい奴だよな、宗谷! ――いや、お前にとってもそう悪い話じゃないと思うんだ。もしお前が希望してくれるならの話だが、今と同待遇でうちに移籍しないか? 前も言ったが、お前の腕が欲しいんだ。仕事は暇すぎず忙しすぎずなペースだし、でっかい案件はすでに確保しているから今後数年は食いっぱぐれる心配もない。基本サーバー室か、独立した部屋もらっての作業だから他人との接触も最低限に抑えられるしな。それに、変則的だがここの子会社的な立ち位置にもあるから、お前を推薦してくれた人にもそこまで不義理にはならないと思うんだ」
 あまりにも予想外な話の流れに、僕は思わず言葉を失った。
 その束の間の沈黙を破ったのは、どことなく不機嫌そうな二宮さんの声だった。
 「――ですから、今宗谷君に抜けられてはうちが立ち行かないと言ってるでしょうが。その人の話を聞かなかった振りをする癖、いいかげんに何とかしてください」
「だが、断る」
「……子供ですか、あなたは」
 はぁー、と盛大にため息を吐き、二宮さんが僕を見た。
「北がいらない事を言いましたが、我々が君を引き止めるのは、君の後ろ盾に気兼ねしてのことではありません。――確かに、そういった面が全くないと言えば嘘になります。ですがそれ以上に、君に抜けられるといくつかのプロジェクトが立ちいかなくなるのも、技術屋の集まりとしては情けない限りですが事実なんです」
 いつになく熱心に語りかける二宮さんに、僕自身、らしくもなく胸の奥が熱くなるのを感じる。
「それに、君の変則的な勤務体制を受け入れ、実際に運用に繋げることで実績と前例を作っておけば、今後、例えば育児や介護などの都合で長時間勤務できない人でも問題なく仕事を続けられるようにできるかもしれません」
 なんて、そこまでして働きたがる人がどれだけいるかが問題ですが。
 そう笑う二宮さんに、僕もつられてほんの少し笑ってしまう。
 そして――
「北さんには申し訳ないですが、二宮さんのご提案をお受けしようと思います。――僕、これで結構安定思考なんです。家族に限りなく近い人もいますしね」
 こう告げた途端、嬉しげな顔になった二宮さんと、実に悔しげな北さんの表情の対比に、僕はたまらず笑ってしまった。
 その後、早速で申し訳ないけれど、と、具体的な勤務体制についての話し合いに入ったため、結局解放されたのは定時を少しすぎた時間帯だった。
 心配しているだろうワカに途中経過は報告しておいたから、帰りが遅くなるのは問題ない。
――ないのだけれど、それはあくまで常識の範疇というか、いつもの帰宅時刻までならば、のはずだ。
 そのはずなのに、どうやら二宮さんの予定表から僕の来社を知ったらしく定時で作業を切り上げた山上に捕まえられて、会社近くの居酒屋に引きずり込まれた。
「……ああ、結局そうなったのか」
 僕自身あいまいな部分も多々あったけれど、軽く事情を説明しただけで山上には大体の事情が理解できたらしい。
ふむふむと一人納得する彼にうんと頷いて、オフレコではない部分をもう少し詳しく説明する。
「ひとまず月水金と火木で出勤と自宅勤務を分けるみたい。前半、後半で分けるのだと、週頭と週末の対応が難しいからね。しばらくはこれで様子を見て、問題が無ければ続行するし、問題が出るようなら適時対応ってね」
「ああ、なるほど。つまり休日出勤でカバーし切れなかったところをお前が補って、週中時点でヤバそうなところをサポートして、週末に切羽詰ったところを一つにまとめてどうにかするってパターンか」
「そう言うと身も蓋もないけれど、まあ、うん、そうかな」
 ぶっちゃけすぎな山上の言葉に苦笑しつつ頷けば、
「けどさ、それって結局今やってる事と同じじゃね?」
 と、更にぶっちゃけなセリフが返ってきた。
「そうだよ。ただ、僕をなるべく表というか、関係者以外と接触させないようにしようっていうのが上層部の出した結論みたい。会う機会が少なければ、興味を持たれる事も減るだろうって」
「んー、けどさ、出現率レアなのにやたらお役立ちで重宝される人材って、逆に興味惹かね?」
「……まあ、僕もそれは思ったけれど、上がそういう結論を出したならそれでいいんじゃないかな。僕としてはワカ以外の女性と関わる機会が減るだけで十分だし」
「……お前、本気で徹底してるよな」
 どこか呆れた風に言われたけれど、何かおかしいのだろうか。
 僕としては、恋人がいるのに他の女性にも気軽に声をかけたりする山上の方がよっぽど理解不能だ。
「ま、お前の話はひとまず置いといて、だな」
 にんまりと、まるでアリスのチェシャ猫のように山上が笑う。
「苦節五年ちょいにして、ようやっとカノジョとの同棲が決まりました! 祝ってくれ!」
 ぐっと握りこぶしを掲げる彼は全身で喜びを表している。
 そういえば、確か以前、恋人がつれないだとか信じてくれないなどと鬱陶しい事を言っていたなと思い出す。それを思えば中々の前進ではある。
「それはおめでとう。でも、本当に大丈夫なの? 二人暮らしって、結構大変だよ?」
「うん、それはなんとなくわかっちゃいるんだ。何度か押しかけ亭主したり、休暇を合わせて同棲ごっこ的な事はしていたから、生活パターンの違いとか、パーソナルスペースの違いなんかも一応把握はしてるんだ。あいつさ、甘えん坊な癖に自分の空間ないとパニック起こすから、お互いの職場の中間で、ファミリータイプの安い賃貸がんばって見つけた。駅は快速停まるし、住宅街だから結構閑静だし、近所に安めで遅くまで開いてるスーパーとかもあるから生活には困らんはず! ……つって、土下座繰り返してOK出してもらったのさ!」
 やたら胸を張っているけれど、口にしている内容は情けない事限りなし、だ。