君だけの僕 ― 春の光に雪は溶けて 02 ―
「そこなんだけどな、実は俺、年末に昇進試験受かってさ、来年度から主任サマになる事決定なワケですよ。なので基本給底上げされるワケですよ。ついでに個人で受験した資格もギリだけど取得したから資格手当ても入るしな!」
現実的なところを突いてみるが、けっこうちゃらんぽらんに見えて意外と堅実に計画を推し進めるタイプの山上は、僕も知らない間に着実に色々成し遂げているらしい。
まったく知らなかったアレコレについて聞かされて、僕は思わず目を丸くした。
「それはすごいね。確か主任なら、残業手当はまだ貰えるんだよね?」
「いや、それなんだけどな、実は地味に制限かかるようになるんだよ。三六協定からはみ出る分はサビ残確定。俺、これまで基本残業代で稼いでたからちょっくら厳しいわけですよ。それに人を纏めるとか、俺にできると思うか!?」
くわっと食ってかかってきた同僚に、ほんの少し考えて、僕はこくりと首肯した。
「だって山上、なんだかんだ言って人の中心にいつもいるじゃないか。確かに人を『使う』ってなると話は変わるけれど、人を『纏める』のなら問題ないと思う」
率直に思った事を告げると、ほんの少しぽかんと僕を見つめた彼は、けれどすぐにその整った顔をくしゃくしゃにして笑う。
「マジ? マジでそう思う?」
「だって、そうでなきゃ毎回同期会の幹事なんか任されないでしょ」
僕の出席率は地を這っているけれど、それでも毎回七割以上の同期メンバーが一同に回するのは、会を取りまとめる山上にそれだけの人望があるからだ。僕だって、ワカに行けと言われるからというのもあるけれど、幹事が山上でなければきっともっと参加率は低いだろう。
きっと上司たちは、そういう山上の影響力を大きく買っているんだと思う。
「幹事の件はともかく、宗谷にそこまで言われちゃがんばるしかないな」
「うん、がんばれ。どんなに業務が増えたとしても、残業は極力減らしてカノジョにさみしい思いはさせちゃだめだよ。忙しくしすぎて振られたなんて恥ずかしい話は聞きたくないから」
さらっと付け足した一言に、隣の気配がべちゃっとテーブルに突っ伏した。
「……お前見習って、早朝出勤でもするかな……。あいつ以外と早起きだから起こしてもらって」
「でも山上、朝弱いよね。続くの?」
反射的に当たり前の懸念を口にすると、今度はぐぐっと喉の奥で唸るのが聞こえた。
「宗谷、お前な、俺を応援するのか落とすのかどっちかに決めやがれ!」
「――僕は正直に思ったことを言ってるだけなんだけどな」
「……そうだよな、お前ってそういう奴だよな……」
ビールをぐぐっと呷って泣き真似する山上に笑いながら、僕は烏龍茶を飲む。
「でも、それならさ、ぜひこれからも昇進して、いずれは僕を使うくらいになってくれよ。そうしたら僕ももっと仕事しやすくなると思うし」
「! おう! がんばるわ俺! チャコだけじゃなくお前のためにもな!」
一気に復活した山上を見ながら、これがアメとムチ……いや、今の場合はムチとアメか? なんて、本人に知られたら再び撃沈間違いなしな事を考えていたのだ。
ワカが待っているから、と予め断っていた事もあって、お互いの近況報告を終えたあとは申し訳程度に注文していた食事と飲み物を明けて、早々にお勘定をした。
元々はほんの一、二時間の予定で出てきたというのに、今はもう七時前。恐ろしく遅れてしまっている。
ワカは、一人の部屋で誰かを待つのがあまり得意じゃない。
初めから帰りが遅くなるとわかっているのならまだいいのだけれど、今日のように本来の帰宅時刻が伸びに伸びてしまうような事態には、てき面弱い。
だから少しばかり焦っていると言うのに、駅に着いた時、ちょうど僕たちの電車が出ていくのが見えて、思わず舌打ちなんかしてしまう。
「お前、本当にあのオトコマエなカノジョの事、好きなんだなあ」
ニヤニヤしながらそんな事を言ってくる山上に返事をする気にもなれず、僕は気ぜわしく携帯電話を開く。
ワカからは、メールも着信もない。これを良い傾向と取るべきか、悪い傾向と取るべきかで一瞬悩みつつ、今から帰るよ、と、短いメールを送った。
どうやら自分の恋人についても色々ノロケたり自慢したりしたいらしい山上は、別れ際に「そのうちダブルデートしよう、ダブルデート!」とやたらハイテンションに叫んでいた。もしかして、たった一杯の中生で酔ったのだろうか。だとしたら随分経済的だ、なんて考えつつ、僕はあいまいに笑って手を振り返した。
ダブルデートというかグループデートなら、そういえば随分前に何度かした事があったっけ、と、ふと思い出す。ワカの心で繋がった姉妹たちとその彼氏たちとで、某ネズミの国だ、山だ、海だとはしゃいでいた。
三年前には僕が就職活動をしていたり、ワカの姉妹の一人が調理師の試験を受けたりと忙しかったし、そのあとは僕が社会人になり、また他のメンバーもインターンシップだとか、気の早い就職活動を始めたりだとかですっかりそうやって集まる事もなくなってしまった。
彼らとまたどこかに出かけるのもいいかもしれないけれど、ワカがいいと言ってくれるのなら、山上とその恋人と出かけるのも悪くはないかもしれない。そう思う程度には、僕は山上に心を許しているのだろう。
山上を乗せた電車を見送ると、僕は足早に改札を出た。携帯電話には、やっぱりワカからの返信はない。
これはあまり良い傾向じゃない。
そう判断して、ほとんど無意識の動作でワカの携帯電話を呼び出す。
最初の呼び出し音が鳴り切るより先に回線が通じる。けれど、向こうから声が聞こえてくるまでには、ほんの少し時間が必要だった。
『……克己?』
「うん、僕だよ。今、駅。すぐに帰るから、良い子で待っていてね」
『ん、待ってる。早く帰ってきて』
不安げな、心細げな、今にも泣き出しそうなそんな声。
寂しがらせてしまったという事実に深く反省する。僕は重ねてすぐに帰るよと伝えると、通話を打ち切って早歩きを駆け足へと切り替えた。
歩けば約十五分の距離は、駆け足なら五分もかからない。オートロックのエントランスを通り抜け、エレベーターの箱の中で呼吸を整えつつ、やたらゆっくりと切り替わるデジタル数字を睨みつける。
ようやく目的階が表示され、どこか間の抜けた電子音の後に開き始めた堅牢なドアの隙間を縫うように抜け出すと、僕はラストスパートだとばかり、部屋の前まで駆け抜けた。
気が急いて、上手く鍵を鍵穴に入れられない。早く、早くワカを安心させてあげたいのに。早くワカに会いたいのに。そう思えば思うほど駄目になる自分に途方に暮れかけた時、内側から開錠される音がして、間を置かず玄関の扉が開かれた。
「克己!」
飛び出してきたワカの、半分泣きかけている顔を見た瞬間、僕の中でワカへの愛しさが爆発した。
「ただいま、ワカ。ちゃんと帰ってきたよ。遅くなってごめんね」
ぎゅっと、それが公共の場だなんて百も承知でワカの身体を抱き締める。TPOだとか世間体だなんてものよりも、今はこうして僕がちゃんと帰ってきたのだという事をワカに知らしめる方が大事だ。
僕の腕の中でワカはなんどもうん、うん、と子供のように頷いて、ぎゅっと僕を抱き締め返す。ほんの少し胸の辺りが濡れる感覚があったけれど、目を真っ赤にしつつ笑ってくれたワカに、僕はただ笑い返す。
「さあ、中に入ろう? ちゃんと今日のご報告もしなくちゃだし」
促すと、もう一度素直にうん、と頷いて、ワカは僕の手にぎゅっと握ったまま先に部屋に入る。後ろ手に玄関の扉を締め、鍵を掛けたところでワカが振り向いて「おかえりなさい」と微笑んだ。
まるでいつもの僕みたいにずっとくっついていたがるワカを宥めつつスーツから部屋着へと着替えた僕は、リビングのソファでワカを膝に乗せると今日の出来事をこまごまと報告した。
「……そっか。じゃあ、春からは克己、うちにいてくれる事が増えるんだ」
「うん。僕としてはどちらでもいいんだけど、子供ができたら僕が家にいる方がいいよね?」
この冬以来、なぜか僕たちは自然と家族を持つ話をする機会が増えた。これまでは二人して遠慮気味だったのに、ワカが僕に甘えてくれるのが増えたせいだろうか。もともと家族も同然だけれど、二人の絆の証が欲しいような、まだ先でもいいような、そんな不思議な気分だ。
「そうだね。あたしが外でバリバリ稼ぐから、克己は赤ちゃんの面倒を見つつ、自宅でバリバリ稼ぐってのがあたしたちには合ってるかもね」
嬉しげに笑うワカを見ていると、ただでさえ密着しているせいで、うっかりいけない欲が擡げてくる。ダメだ、今はまだダメ。特に今はくっついているのだから大人しくしてくれないと、色々困る。特にワカはまだ明日、仕事があるのだ。
なんとなく、今日はお許しが出そうな気がしなくもないけれど、けじめはけじめだ。
気を逸らすためにも、ふと思い出した二宮さんの言葉をワカへと伝える。
「そういえばね、二宮さんが言ってたんだ。何か、僕が今自宅勤務している原因になった女の人がね、春からは別のところで別の仕事をするようになるから、僕はもう会う事はないだろうって。ワカ、何か知ってる?」
首を傾げるついでにワカの顔を覗き込むと、ほんの少し驚いたように目を瞠っていた。けれどそれは本当に短い間で、ぱっと笑顔になると僕をぎゅうっと抱きしめた。
「あたしは、知らないよ。克己に迷惑をかけるような人なんてね」
「そうなの? ワカなら知ってるかなって思ったんだけど」
「知ってても教えないし。だって、克己はあたしだけの克己でしょう? だからね、他の女の人なんて、別に知らなくていいんだよ」
そうでしょ? と、ほんの少し不安げな顔で覗き込んでくるワカに、僕は急いで首を縦に振る。
「うん。それでいいよ。僕にはワカさえいればいいから、他の女性なんて知らないよ」
そんな言葉一つで、ワカの顔がぱあっと明るくなった。
こんな言葉一つで幸せになってくれる事に、どうしようもない喜びを感じる。
この笑顔のためなら、僕は何だってできる。歪でもなんでも、こうして二人で一緒にいて幸せならそれでいいのだ。
「ね、克己。さっきからさ、あたってるんだけど」
くすくすと笑いながら更に身体を押し付けられて、僕は情けない声をあげてしまう。
「ワカ、僕をいじめてる? せっかく我慢しようとしているのに……」
「んー、今日はいいよ。特別」
「特別? どうして?」
「ちょっとね、嬉しい事がわかったから。だからお祝い」
とても満足げに目を細めてキスをねだるワカに、僕が抗えるはずもない。
がんばって被っていた羊の皮を全力で放り投げて、浅ましいオオカミの本性を露にすると、僕は目の前の柔らかな唇にむしゃぶりついた。
理由なんて、なんでもいいのだ。僕はただ、ワカが好きで、ワカが欲しくて、ワカが愛しい。それだけなのだ。
強いて言えば、僕は君のために、君は僕のために生まれてきてこうして出会ったのだ。だから僕たちは、お互いさえあればそれでいい。それだけで満たされる。
「好きだよ、若菜。ずっと僕だけのワカでいてね?」
「あたしも愛してる。だから克己はあたしだけの克己でいるんだよ」
情欲に潤んだ瞳で見つめてくる愛しい女性に、理性の箍が吹っ飛んでしまう。
そのままソファにもつれあうように倒れ込みながら、僕はいつまでも君だけの僕でいるよと、誓いを新たにした。